夏休みも後僅か。加持は約束を果たすべく、ミサトに頼み事をした。リツコに一目惚れした彼のためだ。

そのうち来るように言っておく…言ったからには、しなければならない。

『赤木は相当厳しいぞ』
『分かってる分かってる…あのレベルなら当然だろ。ただ、もう一度会いたいんだよ』

(…そういう意味じゃないんだが)

高嶺の花…手が届かない存在。リツコは。加持がそういう意味で、難しいと言っていると、彼は思っている。

(実際、そう見えるのが厄介っちゃ厄介なんだよ)

加持もリツコの最初の印象は彼と差がない。美人で賢そうだが、隙がない。大抵の男はそう思うだろう。

頭が良すぎて少々ズレているのか、ズレている人間に天才が多いのか。歴史に名を残す人間は、一風変わっていると見なされていたらしいし、どっちも正解だと加持は考えておく。

(赤木はそのギャップが面白いんだが)

だから、ミサトも尊敬しつつも、心をゆるしている。根は温かい人間だ。

リツコだけ誘っても、断られるのは目に見えている。必然的にミサトに頼むしかない。

『オッケー。加持とその人がシフトに入ってる日、教えて』

快くミサトの了解を得る。やはり、リツコの色恋沙汰には興味津々らしい。

『悪いな、変なコト頼んで』
『全然良いよ。楽しみかも』

リツコには申し訳ないが、人に好かれて嫌な気分はしないと、ミサトは思う。

(…結果はどうあれだけど)



約束の日。リツコはやたらと機嫌が良い。ミサトが電車の中で聞いても、店に着いてからゆっくり話す…そう言うだけだった。

(まあ、たぶん修学旅行の話だよね)

「よう」
「へへ、来たよ。お疲れ」

加持に事情は聞いてある。ミサトはこっそり耳打ちした。

「(リツコ、滅茶苦茶機嫌良いよ)」
「(マジで?そりゃ良かった)」
「(ねえねえ、どの人?)」
「(背が高くて髪茶色いヤツ)」

平日だから、客もバイトも少ない。ミサトはすぐに分かった。なかなか見た目は良い。派手な感じはするが、苦学生で、大学資金のために働いていると加持から聞いていた。

「相変わらず仲が宜しいこと」

振り向くと、リツコが腕組みをしながら笑っている。

(…どうかな)

ミサトも少しドキドキしてくる。彼はリツコに気付くと立ち止まり、頬を染めてじっとリツコを見つめていた。他は何も目に入らない…そんな様子だ。

(良い人だ、絶対)

リツコを好いている人間に、無条件で好印象を持つらしい。

「ささ、こちらにどうぞ。赤木さん」
「あら?何処かで会ったかしら?」

全く覚えのない人間に名前を呼ばれ、訝しげにリツコは彼を見る。

「前も来てくれたよね。加持と同じ学校なんだって?凄いな、超進学校だし。アタマ良いんだね」

座りながら、彼は必死にリツコに話しかけている。しかし、当のリツコは他の事で頭が一杯だった。

「ごめんなさい、覚えていなくて。ジンジャーエールお願いするわ」

(…うーん)

オーダーを済ますと、リツコは意気揚々と用紙を取りだし、ミサトに説明をし始めた。あの建物の地図ではない。その周辺の地図らしき物。やはり、修学旅行の事で、機嫌が良いらしい。

「ね、リツコ。さっきの人、結構素敵だと思わない?」
「…あなた、加持君がいるでしょう。そんな事言って良いのかしら」
「そうじゃなくて、リツコはどう思うかなって」

リツコは何か勘付いたようだ。手を止めてミサトをじっと見る。

「前に私の好みの男性を聞いてきたわね。あなた」
「え、ええと、そんな事もあったかな」
「いきなり何かしらと思ったんだけれど、もしかして…」

(あ。バレた)

彼は遠くから、うっとりとした表情でリツコを見ている。

「悪いけれど、興味ないわ」
「恋愛どころじゃないってこと?」
「…そうではなくて、ピンとこないのよ」

(ピン?)

リツコは余程、理想が高いのか…そういえば凄く年上が好みだと聞いていた。

「誤解しないで。彼がどうの…ではないの。私だって恋愛したくない訳ではないわよ」

少し意外…そう思いながら、ミサトは彼とリツコを交互にチラチラと見ていた。

「私の為に生まれてきた男性に巡り会ったらね」
「へ?」
「一目見たら分かる筈よ。きっと」

拳を握りしめ、宙を見上げながら、目を輝かせている。いつか出会える運命の人…とやらを思い浮かべているらしい。ミサトは呆気に取られ、ぽかんとリツコを眺めていた。



「…そ、そうか。ありがとな」

トイレに行くフリをして、今聞いた事を加持に話した。

(意外に乙女っつーか、現実的なような、そうでないような…)

「それじゃ、リツコ待ってるから」
「ああ、ゆっくりしてってな」

天才の考える事は理解し難い。でも、ピンとくるという部分は分かる。最初に会った時に何かを感じる…上手く言えないが、この人を好きになるかもしれないという感じ。

但し、それは後から考えて"今思えば初めて会った時から…"という風にだ。

「…感動したよ」

背後から、例の彼が現れ、加持はギョッとした。厨房にでも居たのだろう。この流れだと、一部始終聞いていたみたいだ。

「なんて純粋なんだ…」

リツコの考えが純粋かどうかは置いておく。脈がないのにショックを受けていないようだ。

「俺はピンピンきたけど…益々良いなぁ、赤木さん」
「すまん、役にたたなくて」

彼は加持の肩を両手で掴むと、首を横に振った。

「彼女みたいな人が存在する…それだけで嬉しいよ」


リツコは練り上げた計画を聞いて欲しくてたまらない様子だ。加持もミサトも、騙していたみたいで引け目を感じているのもあり、ミサトの家に集まる事にした。

「赤木。考えは分かったが(理解はできないけど)話してみると案外印象が変わったりする事もあるぞ?」

電車の中。リツコは先程の事など、まるで頭にないらしく、熱心に用紙を見ている。

「まだ引っ張るの?運命を感じなかったもの。無理ね」

(…ダメだこりゃ)

彼も納得しているし、リツコは眼中にない。夏休みが終われば、一旦バイトから離れる。彼には悪いがこれ以上はどうしようもない。加持はこの話題は終わらせた。

ガラガラの車両なのに、左足を前に出し、右足を曲げてミサトは立っていた。立ち方の稽古をしているみたいだ。

「もっと腰を落とさないと…」

窓に移る自分を見て、ブツブツ呟いている。リツコもミサトも、方向は全く違うが、夢中になれる物がある。加持は羨ましく思う。

(しかし、変人が揃ったモンだ)

類は友を…と言うから、加持もそうかもしれないが。天才で、美人。一見すると儚げなリツコ。自分の過去を知らない、訳の分からない保護者がいて、武道好きなミサト。

「広いと体動かしたくなるなぁ。型の練習やりたい」
「…葛城、それはやめとけ」
「さすがにしないよ…家じゃ狭くてできないんだよね」

ミサトは吊革をチラリと見た。何を考えているのか加持は察する。

「懸垂もやめとけ。誰も居ないとは言っても、マナー違反だ」
「…分かってるわよ」

(俺がモラルをどうこう言うとはな…)

自分の口から出た言葉に加持は違和感を覚える。人にそんな事を言うようになるとは…昔なら考えられない事だ。

(何が起こるか、人生はホントに分からないモンだ)



ミサトの家に着くと、リツコがコーヒーを淹れてくれる。本来なら主であるミサトがするべきだが、これが習慣らしい。加持が前に来た時もそうだった。

「さっきミサトには少し見せたけれど、泊まるホテルを推測してみたの」

リツコは机に用紙を広げる。丸が三つ付いていた。日本の首都になる場所だから、建設は急ピッチで進められてはいた。

しかし、営業しているホテルは僅かだ。視察に来るビップ用として造られた…そんなところじゃないかとリツコは言う。

「この三つのうち、どれかだと思うの。ただ…」

リツコは珍しくため息をつく。

「どれも、あの建物から遠いのよ」

地図を手に取ると、じっくり眺めると、加持はリツコの困っている事を理解した。

「一番近くても五キロはあるな…」
「それくらいなら走れるじゃない」

ミサトが言うと、二人は同時に首を横に振る。

「ある程度、設備された道路ならともかく山道だぜ?」
「照明もないでしょうね」

公共の交通機関もないのは、ミサトの話で分かっていた。自分達で建物まで行くしかない。

それに、五キロも走ったら、辿り着く前に疲れてしまう。体力は温存しておかなければならない。

「困ったわね…ここが問題なのよ」

困ったと言いつつ、リツコの口調は然程、そう感じない。困難な事を乗り越えるのが一つの悦び…たぶん、そんなところだ。

「自転車とかは?」
「どうやって持ち込むの?」
「…だよね」

(リツコ、楽しそうだな)

この状況なら、諦めるしかなさそうなのに、どうにかしようとしている。しかも、嬉々として。半端な気持じゃない事が、ミサトにも伝わってくる。

「加持君、運転はできるかしら?」
「へ?運転て、車?」
「当たり前でしょう。船で乗り込むつもり?ヘリコプターなら更に良いけれど、現実的ではないし」

車も現実的ではないと加持は思う。しかし、リツコの視線が恐ろしい。何か言わなくてはならない。

「できなくはないが、自信はないな」

慣れない山道を、リツコとミサトを乗せて運転するのは、抵抗がある。

「ミサトは?」
「す、少し習ったら事はあるけど」

あの建物に通っている時に、敷地内でやった経験はある。一通り習ったから、やれない事もない。実は結構得意だ。ミサトは車を動かすのは好きだった。

「できるのね?そうでしょ?」
「い、一応は。でも、免許持ってないし」

一般の敷地内なら許されても、公共の道路を無免許で運転するのは違反だ。

「今更それがなにかしら。散々、法に触れる事をしてきたわよね」

確かにリツコの言う事は事実だ。しかし、こればかりは加持は賛成できない。叔父は車の事故に遭い、大怪我を負っている。運転を舐めたらいけない。

「赤木。それはダメだ。命に関わるだろ?」
「それはそうだけれど、他に案は?」

そう言われると困るが、とにかく無免許で車を運転するという、無謀な行為に加持は賛同する訳にいかない。

「ミサト。あなた結構運転には自信あるんじゃない?」
「うん、ま、まあ、そこそこは」

ない事もない。でも、いくらリツコの考えでも、加持と同様に、ミサトも無免許で運転するのは抵抗がある。

「なら、免許取りなさい。一ヶ月以内に。費用は払うわ」
「え、でも…保護者の許可がいるんじゃ…」

現行の法律だと、普通免許は十六から取れる。しかし、許可する親は少ない。大体が、高校卒業間際に取得をする。それは昔と変わらない。

「あなたの保護者に頼むわけにはいかないわよね。良いわ、それはなんとかするから」
「…強引じゃないか?」

事故のせいで、車を毛嫌いしている訳ではない。車に助けられる事も多々あるし、これからもそうなると思う。

救急車やタクシー等に救われた人間も大勢いるし、加持も世話になる可能性だってある。

ただ、リツコの案は行き過ぎだ。

「それなら、たまには加持君も考えてくれる?私だって、こんな事を頼むのは気が引けるわよ」

(…険悪になってきた)

冷静なリツコの表情が逆に恐い。かなり、内心では気が立ってる…ミサトには分かる。実際、口調は刺々しい。

「生憎俺は赤木みたいにアタマ良くないんで。だが、物事の善悪は判断できる」

(加持も怒ってるよ…)

「嫌味を言うヒマがあるなら、何か考えなさい。それくらいの頭脳は持ち合わせているでしょう」

どちらが正しいかは分からないが、嫌味の言い合いをしている二人。こういう場合、リツコに勝てる人間はいない事をミサトは知っている。

「頭脳頭脳って言うけどな、他にもっと大事なモンがあるだろ?」
「ほら、話を反らす。だから男は信用できないのよ」
「なんだよ、それ」
「負けそうになると、誤魔化そうとするのよね。男って」
「なんで男女論になるんだ?赤木こそ…」

(もう限界)

ミサトは壁を思いきり拳で突いた。物凄い音が響き、加持とリツコは驚いて動きを止めた。

「…そこまで。いい加減にして」

握りしめた拳を震わせて、ミサトは低い声で言った。二人はへこんだ壁を見て呆然とした。

「私、免許取る。何としてでも。文句ないでしょ、それで」

リツコは満足そうに微笑み、ミサトの肩に両手をかけた。

「ありがとう。ミサトならそう言ってくれると思ってたわ」

チラリと加持を見て、勝ち誇った表情を浮かべるリツコ。加持は心の中で舌打ちをした。

「免許は欲しいし、それしかないなら」
「学科の問題は任せて。過去の問題を明日までに調べて教えるわ」

善は急げ…そんな感じでリツコは帰って行った。

残された加持は、疲れきった顔をしている。

「無理する必要はないんだぞ?」
「免許取るのは別にかまわないよ」
「しかしな、確実に保護者にはバレるぞ?」

免許証とは、一番手っ取り早い身分証明書になる。裏を返せば、身分が全て知られるという意味だ。

「リツコも、それくらいは考えてるでしょ。いくらでも言い訳はできるしさ」
「戸籍謄本がいる筈だが…」

(…コイツの戸籍か)

どうなっているのだろう?保護者の戸籍に入ってはいないと思う。ミサトは養子ではない。奨励金だとか、遺産の話からすると。それに、保護者"代理"とミサトは以前、言っていた。

「結構面倒だね。書類揃えたりするの苦手だなあ…」

ミサトは気付いていない。戸籍を見れば、両親や、本籍地が分かる。それは、過去の記憶に繋がる事だ。

(…いや、待てよ)

あの事件のゴタゴタで、戸籍を失っている人間も多数いる。それに、変えて別人として生きている人間も。

(下手に期待を持たせない方が良いか)

「なにボケッとしてんの?リツコも確かに無茶言うけど…」

言いながら、ミサトは何かに気付いたようだ。表情を曇らせる。加持は戸籍の事かと考え、口を開きかけた。

「葛城、あのさ…」
「加持は車、イヤだよね」

(叔父さんの方か)

加持は先程考えていた事を話した。

「仕方ないさ。便利な物には危険を伴うのは」
「…そうかな」

イマイチ納得していない…というより、加持に気を遣っている様子だ。

「そんなコトより、葛城の方が凶器だぜ?」

めり込んだ壁を触りながら、加持はなるべく明るく言った。

「だって、リツコと加持が喧嘩するのイヤだったし」
「赤木の事だから、思い付きで言った訳じゃないよな。良く考えてみりゃ」
「…ちょっとだけ、面白かったけど」

そう言って、ミサトは思い出し笑いをする。リツコに言い負かされそうになり、ムキになっていた加持。

「リツコは態度には出さないし、無理言うけど、加持と私の事は、考えてくれてるよ」

加持よりリツコに近いミサトが言うなら、その通りなのだろう。女の子同士の、加持には話さない事もあると思う。

(…赤木を信じてみるか)


リツコの行動力は素晴らしかった。宣言通り、翌日には迅速かつ丁寧に、免許取得までの事を調べて、ミサトに分かりやすく文面で伝えた。

'頑張るよ。リツコが一生懸命調べてくれたし'

(有言実行だな。赤木は)

認めざるおえない。携帯を見ながら加持は思う。思い付きで言っているように見えるが(考えて発言しているのか、その場で案が浮かぶのか、加持には判断できない)責任は果たす。

「"昨日はすまん。言い過ぎた"」

ミサトからのラインを見て、加持はすぐにリツコに電話をした。

「"私も悪かったわ…つい、あの建物の事になると我を忘れてしまうのよ"」

悪びれた口調でもないが、リツコの気持も分からなくはない。仲間割れしている場合でもないし、良く考え、やはりリツコに任せる方が良いと、改めて思う。

「"いや、ホントごめんな。ところで、自動車学校に行くのか?"」

それが一番確実で、一般的な方法だ。

「"そんな時間はないわ。非公認の所に予約を要れておいたの。ミサトなら数回練習すれば仮免許まですぐに取れると思うわ"」

何だかんだ言って、ミサトを信じ、頼っている。

「"本免は、どんなに上手くても一発じゃ受かんないって話だぞ"」
「"昔よりは緩いみたいよ。あの娘なら、やるって言ったらやるわ。ただ…"」

リツコの言おうとしている事を加持は察した。

「"学科か"」
「"そういう事。問題はそこなのよね"」



電車の中で、紙を見ながらミサトは眉間に皺を寄せている。夏休み明けの、久しぶりの学校。それどころではない…そんな様子だ。

「二択って意外に難しいんだよな」

○か×か。これは迷う。文章問題のように、過程で点数を稼げない。

「そうなんだよね。ちゃんと交通ルールを習ってないし」

用紙と、学科教本という本をミサトは交互に見ている。

「運転するなら、丸暗記じゃなくて、しっかり覚えておかないと…」

出る問題は大体、決まっている。それを全部暗記するだけなら、そう難しくはない。しかし、それだけでは本当に理解した事にはならない。

しっかり頭に叩き込もうと、ミサトはしている。

(こういうトコはマジメなんだよな)

普段は雑だし、マメな人間ではない。多分、叔父の事故がミサトにそうさせているのだろう。

「忙しくなりそうだが、稽古も通うのか?」
「週二になるから。学校始まると。勿論行くよ」

(他にも色々と不明点はあるが…)

リツコなら考えていると思う。取り合えず、一つ一つクリアしていく。あまりミサトに多くを伝えると、集中できなくなる。器用な人間ではないから。リツコもそれを踏まえている筈だ。



「赤は停まれ…青は進め。マル」
「違うわ。引っかけ問題の代表格よ、それ」

何故違うのか、ミサトは教本を見て調べている。

「赤木。もしかして、全部覚えてたりする?」

横で聞いていた加持が、リツコに聞く。彼女はミサトより詳しい。

「当然、頭に入れたわ。人に押し付けておいて、自分が分からなきゃ教えられないでしょ」

流石としか言いようがない。リツコは責任感の塊だ。他人任せにするだけではなかった。

「なるほど。"進め'じゃなくて、"進んでも良い"…なのね」
「そうそう。大事な事だわ」

(進めか)

自分も前に進みたい。しかし、何をどうしたいのかは分からない。好きで打ち込めるものがある、リツコとミサトを、やはり羨ましく思った。



気になる事が一つある。これはどうしても聞いておきたい。加持はミサトに聞くべきか、リツコに聞くべきか迷い、後者を選んだ。

「"あら、加持君"」

リツコは機嫌が良いみたいだ。順調にコトが進んでいるからだろう。

「"あのさ、戸籍謄本はもう準備したのか?"」
「"したわよ。手配は"」

リツコの言い方に違和感がある。役所に行けば手に入る。手配と言う言い回しはおかしい。

「"まさか、偽造してるんじゃ…"」
「"そのまさかよ。本名で取らせるとバレるでしょう"」

(…だよなぁ)

加持としては何とも意見し難い。本物の戸籍をミサトは見る事はない。それは良い事のような気もする。

「"過去の事でしょ。加持君が心配しているのは"」

それが一番の理由だ。

「"戸籍を見て、両親の事がはっきりすると、今のミサトに堪えられるか…私も分からないわ"」
「"ない可能性もあるよな"」
「"ええ。それはそれで、またミサトは悩むだろうし"」

意図的に抹消されたのか、あの事件でなくしたかは知らない。どちらにしても、自分の出生を証明する物がないという事実を突き付けられる。

「"その方が良いかもな"」

そうなると、偽名を使う事になる。リツコの頭脳と行動力は素晴らしいし、尊敬していたが、加持は一つだけ心配な部分がある。

「"偽名はどうすんの?"」
「"そ、それは…ミサトに聞いたら?"」

加持にダメ出しをされるのを察し、リツコはそう言って電話を切った。

(イヤな予感がするんだが…)



「"月野ウサギ"」

(…やはり)

どうも、リツコのセンスだけは信用できない。加持の案じていた通りだ。

「"偽名でーすって、言って歩いてるようなモンだぞ?"」
「"気に入ってるんだけど。なんかしっくりくるっていうか"」

(…コイツもダメだ)

リツコの言う事なら、全て良く感じるらしい。

「"野比タマコってのも候補にあったよ。まだ間に合うと思うけど、そっちの方が良いかな?"」
「"…どっちもヤメとけ"」
「"なんで?両方好きだけど"」

加持は頭が痛くなってくる。

「"月野さんとか、野比さんとか呼ばれて、すぐに反応できるか、おまえ"」

電話の向こう側で、ミサトは考えている気配がした。

「"そう言われると自信ないかも…"」
「"俺が明日までに考えとく。その二つは却下だ"」

素敵なのに…と、まだ不満そうに呟いているミサトはこの際、無視だ。

「"じゃあな。明日"」
「"分かったよ。おやすみ"」

偽名なんてなんでも構わないが、ここは譲れない。加持は考え始めた。



「そこ座れ」

当校した途端、加持はリツコとミサトを並んで座らせた。二人の前に立つと、自分の考えを話し始めた。

「言われてみればそうね。でも、名前を呼ばれる事なんて、そんなにあるかしら?」

「接客の基本だぞ。相手の名を呼ぶ事により、信頼感が生まれる」

少子化が加速して、免許を取る人間も当然、減少している。非公認の自動車訓練場も客の取り合いになっている。云わば、接客業だ。

「そうなんだ。そう言われてみれば、名前覚えてくれてるのって嬉しいよね」

ミサトは感心したように頷いている。日常的な事にも、当てはまるからだ。

「そうねぇ…仕方がないわ。それなら加持君の案は?」

リツコが問うと、加持は紙に書いてある偽名候補を二人に見せた。

'桂 ミサコ'

(…分かりやすいけど)

(確かに分かりやすいかも)

カツラギとカツラ。一文字抜いただけだが、文字にすると全くニュアンスは違う。言葉にしても。

「ま、下の名で呼ばれる事はないだろうから、名前はミサでもミサエでもサトミ…書く時、間違わなきゃ何でも好きにしろ」



「全く赤木のセンスには呆れる」
「どういう意味かしら?加持君」
「そのまんまの意味だ」

帰り道。加持は思い出したようにブツブツ言っている。

「そかな。洋服とかは可愛いよ」

ミサトが一応、フォローを入れる。二人共、本気で相手をバカにしているのではない。冗談半分で掛け合いを楽しんでいるだけ。それでも、エスカレートすると、収集がつかなくなってくる。

「…自分で着る分はな」

どうやら、校長室に忍び込んだ時、着せられた服の事を言っているらしい。加持は渋い顔をしていた。

「そんな昔の事、まだ覚えていたの?案外根に持つのねぇ、あなた」

リツコが冷やかな視線を加持に向けた。

「悪かったな。俺は根に持つタイプで。臭くてたまんなかったぞ」
「それはそうでしょう。生ゴミに混ざっていたんだもの」
「…生ゴミ」

そんな物をあさるリツコの姿。想像すると、おかしくなる。しかし、それを人に着せようとする神経は理解不能だ。

(…口じゃリツコに敵うワケないのに)

ミサトが思った通り、加持は黙りこむ。確かに昔の話を持ち出すのも大人げない…そう考えているみたいだ。

「それじゃ、私は塾だから。名前は変更しておくわよ。ちゃんと」

そこはリツコも譲歩した。加持の案に従う。その方が良いと考えている。口には出さないけれど、何だかんだ言いつつ加持を信頼している。



「葛城は帰る?」

ミサトは教本を取り出して頷いた。

「コレやらないとね」
「まだ昼間じゃん。明日から普通に授業だしさ。少し寄ってけよ」

加持の意図する事は分かる。これから忙しくなる。学校以外で会える時間はなかなか取れなくなる。

「うん」

ミサトも同じだった。日常の流れで考えないようにしていたけれど、二人でいる時間は大切にしたい…そんな風に思えてくる。

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