「ちょっと、ミサト。聞いているのかしら?」
リツコの声にハッとしてミサトは面をあげた。頭が上手く回らない。自分から誘ったのに、申し訳なくなる。
「ちょっと稽古で疲れちゃったみたい…リツコの方が大変なのに、ごめん」
リツコの家の近所のカフェ。そこで昼食を取っていた。話をするのに丁度良い。二人でここに来るのも習慣化しつつある。
「それはかまわないんだけれど、具合でも悪いのかしら?」
殆ど手がつけられていない皿を見て、リツコが心配そうに聞く。
「あんまり食欲ないんだ。ここんとこ」
「あなたの口からそんな台詞が出てくるなんてっ…」
食欲がないミサトなど、今まで見たことがない。リツコは益々心配になる。そして、何か思い付くと、表情が険しくなる。
「ミサト、あなたまさか…」
「まさか?」
少し、間が空く。リツコは聞くのを躊躇っているみたいだ。
「どしたの?」
不思議に思い、ミサトが促すと、周りに誰も客はいないのに、リツコは声をひそめて言う。
「妊娠してたりしないわよね?」
文字通りミサトは飲みかけていた水を吹き出した。
「そ、そんな事してない…してるワケないない」
ミサトは鞄からタオルを取り出すと、机に飛び散った水と、自分の顔を拭いた。
「…ちゃんと確かめたの?」
自分に食欲がないのは、そんなに珍しい事なのか…他の同じ年齢くらいの女の子を知らないから、なんとも言えないが、自分はかなり食欲旺盛だとリツコは思っているみたいだ。
「確かめるも何も、するハズがないよ」
「加持君なら手は抜かないでしょうけれど、完璧な避妊方法はないのよ」
完璧なのはリツコの勘違いだ。たまにとんでもない事を言い出す。
「に、妊娠するような事はしてないから」
妊娠という、キワドイ言葉を口にして、ミサトは変な汗をかく。それに、リツコに加持とそういう関係だと思われていたのも気恥ずかしい。
「あら、そうなの。とっくにしてると思っていたわ」
平然とこんな事を言うリツコが恐ろしくなる。というより、そういう風に思われる自分に問題があるのか…ミサトは考え込む。
「勘違いだったのね。良かったけれど…最近妙に色っぽくなったし」
「…色っぽい?誰が?」
「あなたの話をしているんだから、あなたに決まっているでしょ」
なんでもない…そんな様子でリツコは紅茶を飲んでいる。
「…そこ、詳しく」
生まれて初めて言われた事だ。ミサトも一応女だ。自分のどこを見て、そう表現されたのか気になる。
(なにかあったわね)
やたらに食い付いてくるミサト。この手の話題はあまり乗って来ないタイプなのに。リツコは面白くなる。
(加持君がからかいたくなる気持が良く分かるわね)
「昔は…今もだけれど。大雑把だし、ガサツだし、大食いだし、それに…」
「…私ってそんなカンジ?」
自覚がなかったらしい。ミサトはリツコの言葉に軽くショックを受けているようだ。
「でも、男以上に強いし、それに…そ、そうね」
ミサトを褒める言葉をリツコは探す。意外と難しい。好きだし、良い人間だと思っているが、漠然とした事だ。人の長所を具体的に表現するのは困難なモノだ。
「運動は得意よね。球技大会でも大活躍してたわね。男子より」
「そうでもないけど」
褒められて悪い気分になる人間はいない。ミサトも少し顔を赤くする。実は大した褒め言葉でもないが。
「それに、友達を思いやる事ができるじゃない…私には真似できないわ」
「そ、そかな…そんなコトもないんだけど」
リツコも徐々に乗ってくる。一つ見付けると、次々に出てくる。ミサトは頭を掻きながら、満更でもない…という感じで、ようやく料理に手をつけ始めた。
「そうそう。立ち直りが早いし、元気な所も良いわね」
更にミサトは上機嫌になっていく。先程まで元気がなかったのに…本当に単純だ。リツコはおかしくなる。
「すみません、ご飯おかわりお願いします」
(戻ってるわね…)
食欲のないミサトはどう考えても変だ。どうやら、恋の悩み…リツコもピンときていた。
「あれ?なんでこんな話になったんだっけ?」
色気がどうの…そこからだ。肝心な部分を聞くのを忘れていた。
「加持君の事考えてばかりいるんじゃない?本格的な恋の始まりってトコかしら」
(…鋭い)
リツコは勘が良いな…とミサトは改めて感心した。鋭いも何も、ミサトの態度を見れば誰の目から見ても明らかだ。
「あなたには早いかもね」
「ん?」
「性交するのは。加持君も手が出せないわよね、今は」
今度はご飯を吹き出しそうになり、ミサトは手で口を抑えた。
「せ、せいこ…ええと、リツコ…」
またしてもキワドイ言葉を平然と言ってのけるリツコ。これ以上、この手の会話に堪えられそうにない。
「しない。絶対しない。今は無理…リツコの言う通り」
「"今は"ねえ…」
言葉尻を取り、人をからかうのは加持と同じだ。本当に二人は良く似ている。
「もうヤメヤメ。で、夏期講習はどんな感じ?」
話題を変えたミサト。本来、その報告を聞く為にリツコを誘ったのだ。話が反れまくってしまったが。
リツコも弄るのは止めておく。暫く傍観して楽しむのも悪くはない。教師から得た事を話し始めた。
「大した事はないけれどね」
夏期講習が終わった後、リツコは、解らない問題を教えてもらうという口実で、職員室に乗り込んだ。
夏休みなので、出勤している教師は少ない。その中でも、一番気の弱そうな数学教師をリツコは選ぶ。他の席から離れていたし、話を聞くには良さそうだ。
『先生。教えて頂きたい問題があるんですけど、宜しいでしょうか?』
『あ、赤木さん…』
リツコが質問をしてくる事等、今までになかった。教師は驚いている。
(そんなに私がコワイのかしら?)
教師が生徒に対して苦手意識を持つのはどうかと思う。しかし、学年トップで、全国模試でもトップであり続けるリツコだ。
一目置かれていると言うより、恐れられているといった感じだ。
『ここなんですが』
適当な問題を質問する。勿論リツコは解ける。しどろもどろしながらも、丁寧に教えてくれている。少々退屈だが、我慢した。
『ありがとうございました。助かりました』
満面の笑みを浮かべてリツコは礼が言うと教師はホッとしたようだ。
『ところで先生』
『…ほ、他にも何か?』
直球勝負だ。このタイプならそれが良いと、リツコは判断する。
『校長先生を暫くお見かけしないのですが、どうなされたのでしょう?』
(病気で長期療養中ってコトになってるのか)
リツコから聞いた話はそんな感じだ。あれこれ問いつめたかったが、一人より数人から聞いた方が良い…そう考え、止めておいたそうだ。
『先生が嘘をついている様子ではなかったのよね』
つまり、教師にはそういう話…校長は療養中という事になっている。そして、それを信じている…フリをしているだけかもしれないが。
『盗聴器はどうなの?』
『変化ないわ』
リツコはムスッとして答える。
『そっかあ。なんかヘンだね、全部』
『修学旅行までに何か分かれば良いんだけれど…でも、校長は不在。それがハッキリしただけでも良かったわ』
それを公にしないのも不自然だし、代理を立てないのもおかしな話だ。
『副校長や教頭という存在もいないのよ』
それは最初から知っていたらしい。だから、校長一人が新東京と繋がっている…リツコはそう考えていた。
『やっぱ、あの建物が裏にあるってコトだよね』
それはミサトにも分かる。しかも、相当な権力を持っている。そう考えるのが自然だ。
『楽しみね。修学旅行』
それに懸けているのが伝わってくる。リツコは難解な問題をクリアするのを最大の喜びとし、快楽になる。
『武者震いがしてきたわ。もっと具体的な計画を立てないと』
何かあったら知らせるわ…リツコはそう言って意気揚々と家へ帰っていった。
(リツコ張り切ってたなあ)
助けが必要なら、言ってくれる。その時に強力しよう…ミサトには全く良い案が浮かばない。
(そろそろかな)
時計を見ると十時を少し回った所。案の定、程無くして電話が鳴る。
「"よっ、元気?"」
明るい加持の声。あの日から一週間と少し経つ。リツコに指摘された通り、加持の事ばかり考えてしまっていた。稽古以外は何も手につかなかった。
リツコと会って、元気がでた…というか、日常に戻れた感じがする。
「"元気だよ"」
「"そうか。良かった良かった。最近ぼんやりしてたからな"」
(…誰のせいだと)
「"俺の事考えてただろ?"」
「"考えてません"」
「"ま、そう言うなよ。今日赤木と会ってたんだろ?何か分かったか?"」
リツコから聞いた話をミサトは簡潔に説明した。
「"へぇ。益々楽しみになってきたな。修学旅行"」
加持もリツコも、修学旅行の事となるとテンションが上がる。ミサトにとっても久しぶりに行く新東京になる。今となっては、前みたいな抵抗感はない。
「"明日夜来ない?ユイさんが呼べってうるさいんだよ"」
「"う、うん"」
少し緊張するけれど、正直、加持に会いたいとは思う。叔父やユイにも。
「"言っとくが、何もしないぜ…あれ以上は"」
(なんでわざわざ思い出させるコトを…)
「"ムキになるなよ。冗談だって…葛城に対する想いは本気だが"」
加持が何を言わせたいのか、ミサトには分からない。とりあえず言葉が思い付くまで考えていた。
「"照れるなって。じゃ、明日な"」
「"…うん"」
翌日、加持は駅まで迎えに来てくれていた。かなり日に焼けている。年中気候は暑くても、海に行くとやはり特別に焼けるようだ。
「わざわざ来なくて良いのに」
「早く会いたかったってダケ。俺がな」
十分も歩けば加持の家だ。その、ほんの少しの時間も早く…そんな風に思われるのは嬉しい反面、ミサトからすると照れくさくなる。
「葛城ってスカート履かないよな」
「え、そう?」
この道を二人で歩くのは何度目になるのだろう。数え切れない位、歩いた道。見慣れた風景。それなのに加持と一緒にいると、いつも新鮮に感じる。
「制服がスカートだからね。普段はパンツを選んじゃうのかも」
「ふぅん。葛城は足が長いから似合うけどな」
(…そんな事もないけど)
平均より身長があるから、必然的にそうなるだけだとミサトは思う。
ガラスに映る加持と自分。加持の顎の位置に自分の頭がある。前はもっと差がなかったのに。男の子は二十歳位まで成長する可能性があると、聞いた覚えがある。
「良いな、加持は。また背が伸びたよね」
「女の子だって伸びるコもいるぞ」
加持は笑ってミサトの肩に手を回した。
「ちょうど良いな、ここ」
「…なにこの手」
「ラクだから」
「重たいからやめてよ」
わざと体重をかけている。ほぼ毎日稽古で、肩が疲れていた。
「凝ってるな。女子高生の肩じゃないぜ、これ」
親指でミサトの肩を強く押さえ、加持は驚く。
(結構、疲れ溜まってんな…)
加持から見れば、いくら鍛えた体でも、小さく華奢に見える。この肩、背中に色々な物を背負ってしまっている。早く片付けてやらないと…改めてそう考えた。
「葛城さん、久しぶりね。嬉しいわ」
学校帰りに寄る事が多いから、ユイに会うのは本当に久しぶりだ。
(なんだか綺麗になったみたい)
幸せだと女性は綺麗になるのか…そんな事をミサトは考えた。
「こんばんはっ。叔父さんは元気ですか?」
「元気よ。今日も出かけて来たの」
居間に案内されると、叔父はソファに座って本を読んでいた。一見すると、事故に遭う前と変わらない。ミサトは姿を見て安堵した。
「元気そうですね」
「ありがとう。退屈でね…早く仕事に戻りたいよ」
(…なんか、凄いな)
叔父とユイを見ていると、幸せなのが伝わってくる。お互いを想い合っている…どんな関係なのかはミサトには分からないが、相手を尊重し、大切にして、されているのは強く感じた。
「仲良いね。叔父さんとユイさん」
加持の部屋は相変わらずだ。余計な物がない。殺風景と言えばそうだが、散らかっているミサトの部屋とは対照的だ。
「ああ。結婚しても良いと思うんだが」
言いかけて、加持は何か考えている様子だ。
「…事情があるのかもな。まあ、形に拘る必要もないってトコか」
大人には大人の、人には言えない事もある。結婚となると色々と問題も出てくるモノだ。
「話変わるけどさ、聞きにくいんだが…」
「なに?」
「赤木って付き合ってるヤツ、いないよな?」
「ええと、どうだろ?」
聞いた事はない。しかし、そんなヒマはなさそうだ。それこそ時間があるなら、妙な機械でも造るか、母親の部屋に忍び込んでパソコンでもいじっているだろう。
「いないんじゃないかな。多分」
「だよな。いないよな」
女の子の前で、その友人を気に入っている男がいる…そういう話はするべきではない。しかし、バイト先の彼は、かなりリツコに執着している。毎日ラインが来る。
(葛城は気にしないよな)
リツコに直接聞くよりは良いと加持は判断した。ミサトに話をしてみる。
「そうなの?綺麗だもんね。でも、リツコってどういう男の人が好きなんだろ?」
やはり、気にならないらしい。それどころか目を輝かせているミサト。自慢の友人が好かれるのが嬉しいみたいだ。
「聞いてみよっかなー」
携帯を取り出すと、慣れない手付きで文字を打っている。
「"どういう男性がタイプなの?"って、送ってみた」
「赤木の理想か。想像つかないな」
美人と言われる女性は、理想が高いと思われがちだが、実はそうでもない。勿論、例外もある。しかし、リツコはそれに当てはまらないと加持は思う。
「あっ、返事きた」
嬉々とした様子で携帯を見るミサト。加持も覗き込む。
'随分と突然ね。簡潔に言うと年上'
「一応条件はクリアしてるな…」
リツコに熱烈な彼は一つ上だ。
「もう少し詳しくって、聞いてみるよ」
ミサトも興味があるらしい。確かにリツコがどんな男性を好むのか…想像できない分、知りたくなる。
'私のする事に口出ししない人。最低十歳以上は年上。後は気にしないわ'
「…厳しいな、こりゃ」
「でもさ、ほら…理想と現実って違うじゃない。好きになっちゃった人がタイプって言うし」
「葛城にしちゃ気の利いた意見だな」
(…現実を知るのも悪くない)
彼には申し訳ないが、一度店に呼ぶ事位しか加持にはできなそうだ。
「ありがとな」
「ううん。リツコらしいね」
そう言うとミサトは楽しそうに笑う。リツコの話題だと饒舌になる。相当信頼し、大切に想っている。
(…しかし、どうなることやら)
責任は持てないと、彼には強く言ってある。言っておいて本当に良かった。リツコは思っていた以上に攻略難解だ。
(赤木が好きになる男か)
加持にはまるで想像ができなかった。
「葛城はどんなヤツがタイプ?」
「私?」
叔父とユイを見て、何となく素直になりたくなる。彼等は長い年月をかけて一緒にいる。叔父には奥さんもいたし、ユイにも事情があったかもしれない。
「…ちょっと意地悪で、すぐに人をからかう人。それで意地っ張りかな、少し」
膝を抱えてうつむき、ミサトは言う。
「随分とまた、趣味が悪いな」
ミサトの言葉に加持は少し驚く。いつになく素直だ。そして、ミサトの頭を軽く叩く。
「…加持は?」
面を上げずに小声でミサトは言う。
「そうだな…ひねくれ者で、口より先に手がでるヤツ。どこでも寝るし、大食いで不器用」
(…リツコが言ってた事と似てる)
人から見た自分は、美点というモノが出てこないらしい。図々しいが、加持がミサトの事を言っているのを前提とすると。
(あれ?でも私も加持の良い部分は言ってないや…)
どこが良いのか…考えてみても分からない。簡単には言えない…言葉に表すのは難しい。リツコもそうだったのかな、とミサトは思った。
「葛城、顔あげろ」
「…やだ」
「どんな顔してんのか非常に興味ある」
(それを見られたくないんだってば…)
やっぱり意地悪だ。ミサトが右を向くと加持もそちらに回る。逆を向いても同じようにする。何回も繰り返すうちに、首が痛くなってくる。
「もうっ、いい加減にしてよ」
「やっと顔見れたな」
ミサトが思っていたのと違い、加持は結構真剣な表情だった。口元に笑みはあるけれど、目は真っ直ぐにミサトを見つめている。
(…こういうのに弱いんだよ)
からかわれるかと思っていたのに、真面目になったり。深刻な話をしているのに、何でもないって顔をしたり。
振り回されているみたいで。心が揺さぶられる。加持の表情にも行動にも。
「けど、良い意味で頑固で、一本気なコだな」
(男性に対して言ってるみたいよね…)
嫌な気分にはならない。事実、ミサトは女の子らしさは欠如している。料理はしないし、部屋は汚い。
「加持こそ、変わった趣味だよ」
再び顔を伏せながらミサトは言った。加持の真っ直ぐな視線に耐えられない。
「あ、ウエストから腰のくびれが素晴らしい。それと胸がデカ…」
言い終わらないうちに、ミサトは枕を掴んで投げ飛ばす。それは加持の顔面に直撃した。
「…それにコントロールも良い」
「ヘンな事言わないでよ、気にしてるのにっ」
「へ?何を?」
「スラーっとしたのに憧れるし。リツコみたいに」
加持から見れば、申し分のないスタイルだ。しかし、女の子は所謂モデル体形になりたがる傾向が強い。
「葛城も女の子だな」
「…生まれつきそうだけども」
「俺はこれが良い」
真正面から抱きつかれ、ミサトはうつむいたまま身動きが取れなくなる。
「葛城なら十キロ増えてもかまわないが」
背中を擦りながら加持は言う。何となく肉付きを確かめられているような感じの触り方。
「ほら。余分な肉がないじゃん」
「ヘンな触り方しないでよ」
「どういう触り方ならヘンじゃないの?教えてくれ」
(…やっぱ意地悪)
でも、嫌いじゃない。大きな手のひらも、ゴツゴツした腕も指も。自分より高い体温…加持の体の温かさ。ここは居心地が良くて、良すぎて抜け出せなくなりそうになる…ミサトは怖くなり、加持から体を離した。
「なんにもしないって言ってたじゃない」
「"あれ以上"はな。約束は守ってるが」
(すぐに挙げ足を取る…)
飄々としている加持が、少し憎たらしい。ミサトは一挙一動に心が動かされるのに。
「そろそろ行かないと」
「まだ時間あるじゃん」
「宿題、全然手をつけてないんだ」
少し違う。手をつけてないのではなく、手がつかなかった…色々と考えていたから。
(加持はそんな風にならないよね)
複雑な気分だ。平然としている加持が、少々憎たらしい。実際は、態度に出さないようにできるか、できないかの違い。その事にミサトは気付いていなかった。
「ところでさ、不思議に思ったんだが」
駅までの帰り道。加持が思い出したようにミサトに問う。
「前にさ、葛城と組手したじゃん」
「うん?なに、急に」
「結構思いきり突いたつもりだったんだが、おまえ全然平気そうじゃん。痛くないのか?」
いくら強くて鍛えていても、女の子だ。高校生男子の突きをもらったら、軽く吹っ飛びそうなモンだ。
「手に防具着けていたでしょ。なかったら敵わないよ。あっても結構キツかった」
素手とはかなり違うと、ミサトは説明した。防具は自分を護る物ではなく、相手に怪我をさせない為に着用するそうだ。
「効いてないってワケじゃなかったのか…」
「顔に出さないようにしてるだけ。かなり効いたよ」
(…そうか)
「後ね、当たる瞬間、お腹に力を入れるの。慣れないと難しいけど」
手足で受けるのが基本だが、間に合わないと感じたら、そうするのが基本。相手にわざと打たせ、打たれ強くなる…それも練習になるとミサトは言う。
「半身を切って構えるのも大事だよ」
「はんみ?」
加持の正面に立つと、ほんの僅かミサトは左に体を捻る。
「人間の急所って、中心に集中してるよね。モロに当たらないようにすれば、軽減されるから」
(なるほど…)
自分は余程、軟弱なのかと考えていたが、そうではないらしい。
「どしたの?ホント、いきなり」
「いや、何があるか分からないからさ…これから」
守らなくてはならないモノが沢山ある。それに、新東京で何が起こるのか予想がつかない。ミサトとリツコに何かあったら、後悔してもしきれない。
「あそこの人達は確かに普通じゃないけど、高校生相手に酷い事はしないんじゃないかな、たぶん」
見付かっても、閉め出される程度だと思うとミサトは言った。
「私は関係者だしさ、リツコのお母さんもいるし」
「念には念をってだけさ」
訓練を受けている人間には到底敵わない。加持も、暴力は好まないが、叔父に拾われる前は、多少の修羅場は潜り抜けてきた。逃げる事が前提の防衛として、人を殴った事もある。
「でもね、稽古以外で人に攻撃するのはイヤだよ…」
強くなりたい。武道をやっているなら当然そうだ。でも、その"強さ"とは、人に優しくなれるという意味。本当に強い人間は、優しい。上手く伝えられないけど…とミサトは付け足す。
「何となくだけど、分かるな…」
自分の心が強ければ、他人の言動や行動が気にならなくなる。余裕があると、人に優しくなれる。体だけでなく、心も鍛えるもの…そうだろう。
「サンキュー。良い話聞けた」
「全くためにならないような…」
「んなコトない。聞けて良かったわ…マジでありがとな」
部屋に戻ると、妙な気分になる。ほんの少し前までミサトがここにいた。何度も、それこそ数え切れない程来ているのに、海での出来事以来、加持は調子を狂わせられる。
(…俺も変だよな)
抱きたいのに、行動に移さない自分。叔父に大切にしろと、言われているから…という訳ではない。
好きで、大事な女の子だから抱けない…それも違う。そこまで純真になれない。第一、加持は処女性に拘らないし、ミサトを抱く事が、大切にしていない事とイコールにはならない。
(怖いんだな)
ミサトの気持は伝わってはくる。ただ、たまたま側にいて、自分が好きになったから応えてくれているだけかもしれない。
そして、一番の理由は記憶の事だ。戻ったら、その間にあった事を全て忘れてしまう可能性がある…聞き齧った話だから、詳しくは知らない。
もし、そうなったとしたら高校に来てからの事をなくしてしまうとしたら…加持の事もリツコの事も。そんな風に考えてしまう。
(しかし、辛いのは俺じゃない。葛城だ)
ミサトが自分を忘れてしまっても、加持は変わらない自信はある。覚えていてくれたら、何の迷いもなくなる。それまで待つ。いつになるか分からないが。
(今は、アイツがいてくれりゃ充分だ)
だから強くなりたい。何事にも向かって行けるように。簡単な事ではないし、生半可な気持では成せない。
それでも、今より少しだけでも強くなる…そういう風に思えるようになるのが、最初の一歩だ。
踏み出さないより、行動に移して後悔する方が良い。ラクな方を選んだら、何も前には進めない。
周囲の様々な変化により、知らず知らずのうちに、加持も色々と考え始めていた。