「"海行かない?"」

加持と約束の日は明後日だ。いざ、近付いてくると、楽しみなような、緊張するような…ミサトはそんな感じだ。

「"え…泳ぐの?"」
「"泳がなくても良いが。別に水着なら体育で見てるし。不純な動機じゃないぜ"」

学校の体育は指定の水着はない。傷を隠すように、露出を最小限に抑えた水着をミサトは着ていた。

「"…別にそんなコト考えてないけど。そう言われるとちょっと…"」
「"ないない、絶対ない。神に誓って。見たいだけ…海をな"」

自然に触れる機会は滅多にないし、ミサトも行った事がない(と思う)。遠出をするのも嬉しい。

「"うん。分かった"」

そう言うと、電話の向こう側から息を吐く音が聞こえてくる。加持も何処と無く緊張しているみたいだ。珍しい事に。

「"じゃ、早起きしろよ。七時に葛城んトコの駅で"」
「"…早いね。頑張って起きるよ"」
「"楽しみにしてるわ"」

本当にそんな感じがする。電話越しでも伝わってくる。

(私と会うのが、そんなに嬉しいのかな…)

加持が喜んでくれると、自分も嬉しい。それが何故だか分かっている。けれど、分からないフリをミサトはする。そうしないと、自分が何かに溺れてしまいそうで恐かった。自分がどうなってしまうか想像できない。だから気付かないフリをする…そうするしかできずにいた。



「早いじゃん。待った?」

約束より、かなり早く来てしまった。やはり緊張していたらしく、ミサトはあまり眠れなかった。

「ま、待ってない、今来たとこ。たった今」

ムキになって否定するミサトを加持は可愛く思う。しかし、緊張というのは移るモノ。加持もらしくなく、緊張してくる。

(なんで今更…)

結構長い付き合いになるし、加持の家に泊まった事や、ミサトが加持の家に泊まった事もある。その場の流れだったけれど。

二人きりで外出するというのは、なにか特別な事のような気がする。何度かあったけれど、目的もなく何処かへ行くのは始めてかもしれない。

(…前に一度あったっけ)

その時は、加持が街を案内してくれていた感じだ。それに、好きだとか何だとか、そんな事は言われていなかった。その前の話だ。

「手足が一緒に出てるぞ」

ぎこちなく歩くミサトを見ていると、おかしくなってきて、加持は徐々に緊張が和らぐ。

「か、空手の型の基本だから。追い突きは」
「追い突き?」
「足を出して、しっかり止めてから同じ手を出すの」
「稽古熱心だな」
「そうだよ。日常生活でも常に心身共に鍛えるのが武道だから」

得意分野だと話しやすい。ミサトも饒舌になる。松代駅に着く頃には普段通りになっていた。



「楽しいな。私、電車とかバスって好きなの」

ミサトは乗り物の中で、良く窓の外を眺めている。まるで、風景を目に焼き付けるかのように飽きる事なく見ている。

(記憶がないからか…いや)

思い出そうてしている…そんな感じでもない。一つ一つの景色を興味深く見ている。

「バスの中でもそうだったよな。外見んの好きだな、葛城は」
「だって、また見れるとは限らないじゃない」

加持は不意に怖くなる。記憶が戻ったら、ミサトは遠くへ行ってしまう…そんな風に感じてしまう。無意識にミサトが発する言葉。それは、自分でも何となく分かっているのではないか…だから、今を精一杯楽しもうとしているように見えた。

(考え過ぎだな)

そんな考えを振り払う。もし、そうなっても、そんな事をさせない。自分が守る。そうすれば良い。

「見てっ、海が見えてきた」

目を見開いてミサトは身を乗り出す。綺麗とは言い難い色だが、やはり良いものだ。何よりミサトが嬉しそうなのが、加持としては一番だった。

(何処にも行かせないからな。この先何が起きても)



「おーっ、素晴らしい」

真っ白いワンピースの水着のミサト。飾り気のないシンプルな水着だが、スタイルの良さを引き立てていた。

「泳ごうっ」
「電話じゃ乗り気じゃなかったじゃん」
「来ちゃうとね。勿体ないし。水着持ってきて正解」

年中気候は夏だ。でも、夏休みという事もあり、海岸はなかなかの賑わいだ。季節毎の行事を行う習慣も残っている。

夏の始めは開放的な気分になるものだ。

「あそこまで競争ねっ」

遊泳禁止ラインの縄を指差し、ミサトは走り出す。

「ちょっと待てよ、ズルいぞ」

砂浜は走りにくい。加持も駆け出すが足がもつれて転びそうになる。ミサトはかなり先に行ってしまっている。

結構、大胆に背中が開いている水着だ。あまり近くでジロジロ見れなかったから気付かなかったが。

「速ぇよ、待てよこらっ!」



ミサトは平泳ぎをしている。クロールで泳ぐと、加持は簡単に追い付いた。

「フツー競争ならクロールじゃねえの?」

顔を上げたままミサトは加持の方を見て、無表情で答えた。

「平泳ぎしかできないんだよね。顔浸けるの怖くて」
「ダサっ…じゃ、お先に」

勢い良く泳ぎだした加持のせいで、顔に水飛沫がかかり、ミサトは目を閉じた。

「もうっ、わざとだ…」

泳ぐのは好きだし、海を見たら堪らなくなる。けれど、水着姿を加持に見られるのは抵抗があり、勝負に挑んだ。水の中なら見えない。

(試着した時はこんなに背中が開いてなかったと思ったんだけど…)

だいぶ前に買ったから、背が高くなったのかもしれない。



「遅い」

とっくに加持は縄まで着いて、潜って遊んでいた。

「どうしても苦手なんだよね」
「苦手な事なら練習あるのみ、だ」

ここは結構深い。ミサトの足がやっと着く位。

「教えてくれる?もう少し浅い所で」

加持は頷くと、ミサトの手を取る。

「離さないから。顔浸けてみな」
「ここじゃ足が着かないから怖いよ」
「大丈夫。俺がいるから」

さすがにここで意地悪な事はしないだろう。ミサトはしぶしぶ下を見た。やはり怖い。苦手なモノは苦手だ。

「ちょっとでもやってみ?」
「うん…」

目を閉じて、思いきって顔を浸ける。案外平気だ。更に耳位まで潜ってみる。

「ぷはっ…結構大丈夫かも」
「まず、やってみる…ってのは武道と同じだろ?」

その通りだ。最初からできないと考えたら、その時点で終わってしまう。両手を軽く握ってもらいながら、顔を浸けてバタ足で泳いでいく。気付いたら海岸まで戻っていた。

「気持ち良いね。水の中って」
「だろ?今度は深く潜ってみ?」

恐る恐る潜って、ゆっくりと目を開けてみる。地上とは違う景色が見える。加持も潜って、ミサトに向けて親指を立てた。できただろ…そういう合図。ミサトも同じように返事をした。



「美味しいっ、運動の後のご飯は最高だよね」

ミサトは満足そうに箸を動かしている。泳ぐと体力を消耗するものだ。高校生二人の食欲は凄まじい。たこ焼きも焼きそばもカレーライスも、争うように食べ続け、あっという間になくなる。

「食ったら眠くなるな…」

加持はそのまま砂浜に寝転がる。空は青く太陽が眩しい。自然に目を閉じた。

「最高だな…葛城がいるし」

独り言のように呟く加持。既に寝かかっているらしい。

「風邪ひくよ」

いくら暑いとはいえ、海水パンツだけで寝たら寒くなる。加持はミサトの問いに微かに頷き、仰向けに体勢をかえただけだ。

「しょうがないなぁ」

ミサトは自分のバスタオルをかけようとして、加持の体を見た。二の腕にも腹筋にも、良い筋肉がついている。鍛えても、自分にはなかなかつかない。

(羨ましいな…)

これが男女の差だ。持って生まれた体が違う。大した運動をしていない加持の方が、自分より良い体をしている。

良く見ると、顔にうっすらヒゲが生えている。バスタオルをかけると、ミサトも横になった。

(…やっぱ、男の子なんだね)

しかし、男は何故、すねや腕はともかく脇の毛を剃らないんだろう?どうでも良い事を考えながら、ミサトも眠りに落ちていった。



(気持ち良いな…)

外で横になるのは格別だ。周囲の雑音さえ子守唄に聞こえる。普段しない昼寝を加持は満喫していた。

(葛城は?)

ミサトも多分寝ているだろう。案の定、目線だけ横に向けると、うつ伏せのミサトが目に入る。

(コイツだとラクだな)

放っておかれると、女性は不機嫌になるものだ。勝手に昼寝をするなど、とんでもない行為だ。ミサトといると、自由でいられる。彼女もそうだから。

(しかしな、やはりトモダチって感じだよな…)

気のおけない仲なのは喜ばしいが、男同士の友情みたいだ…それはそれで、加持は複雑な気分になる。

上半身だけ起こすと、バスタオルが滑り落ちた。ミサトの物だ。かけてくれたのか…と、考えると嬉しい。こんな些細な事で喜んでいる自分に戸惑う。

「ありがとな」

小声で言うと、バスタオルをかけようとした。その時、ミサトは加持の方に寝返りをうつ。横向きだと胸の谷間が強調され、目のやり場に困る。

(無邪気なヤツ…)


海で水着の女性を見ても、ヘンな気はおこらない。場所に相応しいからだ。街中や電車の中で、水着の人間がいたら、百パーセントの確率で、男は見るだろう。例えが極端だし、違う意味もあるが。

だからと言って、この状況下だと、さすがに見てしまう。欲情するとか、そういうのを抜きに。

「葛城」

一応、呼んでみたが反応はない。ミサトはぐうぐう寝ている。額に少し汗をかいているが、寝心地良さそうだ。

(…ホント、無邪気なモンだ)

体は申し分なく女性だ。手足は長く、胸もデカイ。細過ぎない、程好く丸みを帯びたスタイル。もう少し太っても良いかもしれないと加持は思う。単に自分の好みだが。

(日に焼けるよな)

もう遅いとは思うが、あまり眺めているのも気が退けた。バスタオルをかけようとしたら、ミサトが寝言を言う。

「…さん?」

ミサトの両腕は加持の首に回された。勢いで体の上に倒れ、強く抱きしめられる。

(おいおい…)

寝惚けているのは分かるが、悪くない。折角の状況を利用する事にし、加持も背中に腕を回した。肌の感触を直接感じ、非常に気持良い。頬と頬が触れ、目を閉じて、何度も繰り返し擦り寄せた。

「…お父さん」

("お父さん"?)

はっきりと聞こえた。ミサトが父親や母親の話をした覚えは今までない。彼女自身も記憶にない筈だ。

夢に見て、寝言でも口にするという事は、父親の存在は大きかった。そう考えられる。暫くミサトの言葉の意味…お父さんという人。それに気を奪われていると、体を重ね、自分の下にいるミサトが大きく伸びをしてから口を開いた。

マズいと思って、加持は慌てて動こうとしたが、間に合う筈もない。

「…加持…?な、な、なにやってんのよーっ!」

自分の上にいる加持を見て、ミサトは大声をあげた。

「ちょっと待て、ハナシ聞け話…」

膝蹴りを腹に入れられ、加持は尻餅をついた。



「ごめん」

何となくだけど、ミサトは覚えていた。夢の中で、自分が誰かに抱き付いたのを。

「俺もその…いや」

全く下心がなかったとは言えない。しかし、余計な事は言わない方が身のためだ。

「痛かった…よね」
「全然大丈夫。気にすんな」

本音を言うと、かなり痛いかった。しかし、後に残る程ではない。もう痛みはなかった。アザになるとは考えられるが。

「泳ごっか」

かなり時間が経ったような感じだったが、時計を見ると、寝ていたのは一時間弱。すっきりしたし、泳ぐには丁度良い。

「たまに見るんだ…誰かに抱き上げられている夢」

砂浜を歩きながらミサトはポツリと話す。言うべきかどうか迷ったが、加持は言う事にする。

「お父さん」
「え?」
「お父さんって、言ってたぜ」

(…そうなの?)

自分を助けてくれる夢の中の人。逞しくて温かくて、力強くミサトを抱く腕。

「思い出しても頭痛がしないの。その人…お父さんの夢は」
「親父さんは葛城を大切にしてたんだな」

それは分からない。夢では、いつも同じ場所で、同じ言葉だから。父親の他の記憶はない。

「そうだよね。きっと」

ミサトは納得したように頷く。こんな日は過去にとらわれたくない…そんな風に思える。

「あ、俺トイレ行っとくわ」
「じゃ、ここで待ってるよ」

加持は急いで引き返す。ミサトは立ったまま遠くを眺めた。

(…綺麗だな。来て良かった)

学校も嫌いじゃない。リツコも加持もいる。稽古も好きだし、自分の家も。

それなのに、日常の事は忘れてしまいそうになる。ずっとここに居たい…全てを忘れて。そんな風に思えてくる。

(…夏だからかな)

気のせいか、加持が眩しく見える。首に回した感触が、まだ手に残っていた。男らしく、ゴツゴツした体。広くて逞しい胸。

思い出すと、顔が赤くなるのが自分でも分かる。

(また緊張してきた…)



「お待たせ」
「か、加持…」
「…風邪ひいた?顔が赤いぞ」

ミサトの様子を見ると、加持は手を額に充てた。加持の胸を目の前し、ミサトは見ていられなくて目を逸らす。

先程まで考えていた事が伝わってしまいそうで、心臓が早鐘を打つのが自分でも分かった。

「熱はないと思うが…大丈夫か?」
「な、何でもない。全然平気…」
「…じゃ、行くか」

多少不思議そうに加持はミサトを見ていたが、額から手を離し、そのまま手を握った。

「…なにこれ」
「いや、なんか心配だから」

普段なら振り払う筈なのに、そういう気にならない。

(夏のせいだよね…)

眩しい空と、太陽の光りを受け、反射して光る海。周囲のはしゃぐ人々と、幸せそうなカップル。雰囲気にあてられる。

繋いだ手を離したくないと思うのも、加持とずっとこうしていたいと思うのも、きっと夏だから…ミサトはぼんやりと、そんな風に考える。

「呑み込み早いな、葛城は」

一度やってみると、潜るのは怖くなくなった。目も開けていられる。

「一歩踏み出すのが苦手なんだよね」

取っ掛かりを払えれば、案外何でもできる。結構沖まで泳いでいく。ミサトは体を動かすのは好きだ。唯一の特技と言っても良い。

「おい、その辺で止まれ。深いぞ」

動きを止めて、後方の加持を見る。本当に深い。ギリギリ足が届くくらいだ。

「追い付いたっと」
「やっぱ、ちゃんと足が届かない所は怖いね…」
「だろ?…ほら」

そう言うと、加持は腰を掴んでミサトを抱き上げた。ふわっと体が浮く。それほど身長差はないと思っていたのに、結構高い。

「ちょっとっ、おろしてよ。重いから」
「浮力って便利だな。普段なら無理かもな」
「…失礼だね。本当の事だけど」

加持は笑いながら、そのまま少し引き返す。

「おろしてってば。恥ずかしいじゃない」
「誰も見てないって」

確かに周囲に人は少ない。遠くに何人か見えるだけだ。真剣に泳ぐより、砂浜で遊んでいる人間が殆どだ。

「ぎゃっ!」

急に辺りが見えなくなり、一瞬何が起きたのか分からなくなる。ぼんやり周囲を見ていたから、手を離されたのに気付かなかった。当然、ミサトは海の中に落とされる。

(もうっ!)

水面に顔を出して、ミサトは加持を睨む。

「お望み通り離したが」

意地悪く笑う加持。いつもならムキになるところだが、こんな事は慣れていた。冷静に仕返しを考える余裕はある。

「ねえ、加持」

ミサトは加持の腰に手を回し、じっと顔を見つめた。そのままゆっくり、手を自分の方に寄せると、必然的に体と体の距離が狭まる。

加持は思わず右手をミサトの後頭部へ充てた。それと同時に、ミサトは加持を抱き上げ、そのまま手を離した。

「おいっ、そりゃないぜ…」

海中に沈みながら、加持は叫ぶ。

「ホント、浮力って便利だね…って、うわっ!」

腕を引っ張られ、ミサトも海の中に沈む。まだまだ甘いぞ…そんな表情の加持。

「(同じ手は通じない)」
「(…悪かったわね。私、加持のように意地悪を考えられる程、頭が回転しないから)」

水の中で会話をする。聞えは悪いが、表情と口の動きで伝わる。

小さな魚が何匹か泳いでいる。目が慣れると、水中の中でも良く見えてくる。どうせなら息が続くまで堪能しよう…そうミサトは思った。

ふと前を見ると、加持が両手を差し出している。何となくミサトも同じように手を広げた。右手と左手、左手と右手を正面から合わせると、自然にお互いの手を握る。

吸い寄せられるように二人の体が近付き、顔を寄せ合い、そのまま軽く唇を重ねた。

水中だから。いつもとは違うから。これは自分の意思じゃない。何かに動かされている…きっと。そうじゃないと、こんな事を自分がするとは思えない。ミサトはそう考えていた。

息が苦しくなり、二人同時に顔を出す。加持は無言で両手でミサトの頬を掴み、キスを続けた。最初にした時のような、穏やかなそれではなかった。

顔を少しずつずらしながら、深く口付けていく。加持は片手を後頭部に移し、より激しく唇を求める。ミサトもぎこちなく応え始める。加持の腕を掴み、動きを合わせていく。

(…夏のせいだよね)



(夏だからだ…そうだよな)

時折、唇を離し見つめ合う。ミサトは自分を求めてくれている。加持は確信した。それが、夏のせいでも、海という開放的な空間のせいでも、かまわない。

そして、また唇を重ね、激しいキスをする。何度も何度も繰り返す。堪らなくなり、背中に手を這わせながら、舌を絡めていく。水中だから手が上手く動かないのが、もどかしい。

「…加持」

ミサトを抱き上げると、唇を離し、そのまま強く抱きしめた。頬をミサトの肩に乗せ、暫くそうしていた。

「外で良かったわ」
「…え?」

耳元で加持が呟く。意味が分からずミサトは閉じかけていた瞼を開いた。

「二人きりだったら止められる自信なかった」

本当にそう思っているような、少し残念なような加持の口調。

「いや、今も無理してるんだが…」

ミサトの顔をじっと見ながら、加持は両肩に手を置いた。

「あんまりじっと見られると、困るんだけど…」

耐えかねてミサトは視線を外す。どういう態度をしたら良いのか分からない。

「俺も困ってる。好きでたまんない。だから困る」

こんな場所でこんな事を言うのはズルい。素直にならざるにいられない。今はそう言ってくれている加持だけれど、明日はどうなるか分からない。

ミサトは黙ったまま、そっと自分から唇を重ねて、すぐに離す。加持は少し驚いたように目を見開いた。

「その、今はここまで…で」
「充分だ」

再びミサトを抱き寄せると、加持は目を閉じて優しく髪の毛を撫で、そこに頬を充てた。



シャワーを浴びて、ベタつく体を流す。それと同時に加持の温もりも消えてしまいそうで寂しくなる。でも、体は覚えている。流しても消え去らない。

(…できないよ)

加持とそうしてしまうと、自分がどんな風になってしまうのか、ミサトには想像できない。

(たぶん、溺れてしまう)

他の全てがどうでも良くなりそうで、怖い。自分の記憶も新東京の事も、なにもかも。それでは駄目だ。せめて、自分が何処の誰なのか知りたい。思い出さなくては前に進めない。

(それからでも良いのかな…)



帰りの電車は行きより早く感じる。見慣れた松代まで、あっという間に着いてしまう。急に現実に戻されていく。

「もう着いちゃったか」

加持も同じように感じていたらしく、眩しいネオンと人波の中に紛れると、これから過ごす日常を考え、軽くため息を吐く。

「ここもキライじゃないが…楽しい時間ってのは過ぎるのが早いな」

本当にそうだとミサトも思う。この街も好きなのに、戻って来た事を実感させられ、寂しくなる。

「…だね」

思わず正直に答えてしまう。いつもの加持なら、意地悪くからかうのに、名残惜しそうにミサトの手を握る。ミサトもその手を振り払う事ができない。



もう少しだけこのまでいたい。余韻に浸っていたい。離れがたくて、二人はベンチに座って幾つもの電車を見送る。

「参ったな」
「…ん?」
「こんなに好きになった事ないよ」

ミサトの方を見て加持は笑う。本当に降参…そんな表情だ。

(…私もだよ)

いつからかは分からない。自分を然り気無く気遣い、何度も助けてくれた加持。気付いたら、一緒にいるのが当たり前のようになっていた。

「あの、私…」

どう返答したら良いものか、ミサトは困る。どうしても気の利いた言葉がでてこない"好き"の一言で良いのか…それだけでは言い尽くせない気がする。

「何も言わなくてかまわないぜ。さっきも言ったけど、おまえと居れればそれだけで充分だ」

(幸せだな、私)

複雑な状況も全て受け入れて、そんな自分を想ってくれている。面倒な人間なのに。

「ヨシッ。次の電車には乗るっ」

ミサトが立ち上がり大きな声で言うと、加持は寂しそうだ。ミサトは言葉を足した。

「離れたくなくなっちゃうからっ」

線路を見ながら叫んだ。静かな駅だ。思った以上に声が響く。加持の方を向けない。だから、どんな顔をしているのか分からない。

「葛城」

後ろから、ふわっと抱きしめられ、ミサトは身を固くする。

「ちょっとっ、人前で…」
「誰もいないじゃん」
「来るかもしれないじゃない」
「関係ないね。な、もう一回言って」
「何を?」
「"一生離れたくない"って」
「…そこまで言ってない」

アナウンスが聞こえてくる。もうすぐ電車が着てしまう。加持は背後からミサトの顎に手をかけて、半ば強引なキスをした。

「ダメ…」

そう言いつつも、激しくなっていく唇に応えてしまう。

「ホントにもう…」

薄目を開けてミサトは周囲を見渡す。人影はない。それでもやはり恥ずかしい。加持から逃れようともがくと、今度は両手首を強く掴まれる。

「電車くる…」
「まだ大丈夫」

唇に加持の舌が這わされ、それが口内に侵入してくる。ミサトは成すがまま…になりそうなのを、必死で抑え、慌てて顔を離す。

「こんなとこじゃイヤっ」
「"こんなとこ"じゃなきゃ良いってコトか」

意地悪く加持が言う。

「うるさいっ」

いつも通り加持のペースに持っていかれる。恥ずかしさのあまり、ミサトは脛を軽く蹴飛ばした。



「怒ってる?」
「車内では静かに」
「そう照れるなよ」

ミサトは肩に回そうとする加持の手を咄嗟に捻りあげた。

「分かった分かった…こんだけ強けりゃ送らなくても大丈夫だな」

手を離すと、真剣なのか冗談なのか、判断しかねる口調で加持は言う。

「家まで行ったら自信ないわ、俺」
「自信?」
「我慢できないな。確実に」

何を意味しているのか、ミサトにも理解できる。耳まで赤くなるのが自分でも分かる。加持に見られるのが嫌で、反対側を向いた。

「な、何を…」
「そうビビるなって。俺はいつまででも待つから」

降りる駅に着いてしまう。なにか言わなくてはならない。ミサトは加持の方を向いた。

「顔、赤いぜ?なんでかな」
「うっさい」
「寂しいんだろ?俺と別れるのが」

一瞬、加持の表情がいつになく真剣になった気がした…本当に一瞬。ミサトはそれにつられて頷こうとした。

「…なんてな。調子のり過ぎか」

扉が開く。伝えないのに、言葉が上手くでてこない。

「…今日はありがと」

それだけ言うと、ミサトは電車を降りた。加持がいつもしてくれるように、見送る。扉が閉まり、ゆっくりと動き始める電車。

「寂しいよ」

ミサトはぽつりと呟き、電車が見えなくなっても、暫くそこから動けずにいた。

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