「ほんっと、何にもないんだな」
バスが新東京に近付いて来ると、生徒達は興味津々といった様子で窓に張り付いている。
ミサトから聞いてはいたが、想像以上に何もない。加持は些か拍子抜けした。
「ま、数年後は凄い変わるんだよな」
それに、どこもかしこも工事中だが、あの建物だけは別だ。それもまた、気味が悪いし興味を惹かれる。
(良い方に変わるのかな…)
唯一、外の景色を見ず、座席に寄り掛かっている生徒であるミサト。何度も来ているから今更身を乗り出して見る気にはならない。
つい昨日までの意気込みより、あまり良い思いをした覚えがない場所だ。少々気分も落ちる。
周囲のテンションの高さに、益々気分が下がってくる。少し窓を開けて外の空気を吸ってみた。
『おかえりなさい』
耳元でささやかれたような、小さいけれどはっきりとした声。ミサトは思わず隣の加持を見た。
「何か言った?」
後ろを向いて窓の外の景色を眺めていた加持から、同じ言葉が返ってくる。
「何か言った?」
良く考えると、加持の声ではないのは明らかだ。それどころか、男性の声ですらない。
(…空耳?)
この空気のせいだろう。寝不足でもあるし、幻聴だとミサトは思う事にした。
「良い部屋ね」
さすがのリツコも、ドアを開けて視線をざっと部屋中に走らせると、そう呟いた。本当に綺麗だ。昔、各国の要人が泊まっていただけの事はある。
「景色は…悪いけどね」
窓からの眺めは、とにかく山、進んでいるんだか、なんだか分からない工事だらけ。ミサトの知る新東京。
「さっきから口数が少ないわね」
無理もない…リツコはそう思っていた。自分達には珍しく、新鮮な場所でもミサトにはあまり良い思いをした場所ではない。
「ナーバスになるのも仕方がないけれど…」
「そんなんじゃないよ。大丈夫」
リツコが心配そうに話を続けようとしたので、ミサトは慌てて遮った。ここまで来ておいて、自分の感情に左右されている場合ではない。
「…それなら良いけど」
ミサトにとっては良い場所ではない。なるべく触れないようにすべきだと、リツコは考え、そうする事にした。
(確かに聴こえたのに)
ベッドに横になると、ミサトはバスの中で自分を待っていたかのような声を思い出す。聞いた事があるような無いような声。
――おかえりなさい
消え入りそうな声たった。
"おかえりなさい"…ここに帰って来たね、という意味だと単純に考えていたが、逆の意味にも取れる。"お帰りなさい"―戻居た場所へ帰れ…そうとも取れる。
(ワケ分かんないや。もう考えんのやめよ…)
「いよいよね…行くわよ」
「さて、どんなモンかな」
リツコと加持が楽しそうに言う。準備に準備を重ねてここまで来た。二人はまるで緊張感が無い。これまでの経緯を考えてみたらそれもそうだ。
向こうは三人を待っている。だったら、どんな風に出てきても受けてたつ…そんな感じだ。
皆が寝静まった頃合いを待ち、三人は窓からロープを使って外へ脱け出した。
「随分とまた、古典的なやり方だな」
高さはそれほど無い。伝って下まで降りるのは容易だった。体力の無いリツコでも、割りとラクにロープを滑るように着地出来ていた。
「仕方がないでしょう。加持君はもっと良いアイディアがあったのかしら?」
リツコに言われて加持は黙る。今は口喧嘩も嫌味の言い合いもしている場合じゃない。
「ちょっとミサト、早いわよ…」
リツコが息を切らせながら追いかけてくる。
「ごめんごめん。車が心配でさ」
ここまで来たら、急ぐ必要は無いだろう。1キロ程の道程だ。走っても歩いても然程、時間差は無いと思う。それなら、侵入してからの事を考え、体力と精神力を取っておく方が良い。
「もうすぐだと思うけれど」
整備された道路とは違い、山道を歩くのは考えていた以上に疲れる。ゼイゼイと息を吐きながら、リツコがスマートフォンを取りだし確認しながら一旦歩みを止める。
「そだね、確かこの辺…」
ミサトが言いかけると、リツコが頷く。小さなライトで森の中を照らすと、狭い横路がある。三人はそこへ入って行く。
「…良かった。取り合えず無事」
木の枝や葉を手で払いながらミサトが言う。リツコも加持も置いておいたスコップで少々乱暴に手伝う。程なくして車が姿を現した。
「リツコ、鍵ちょうだい」
「はい。頼むわね」
深呼吸をして、息を整えているリツコから、鍵を受け取り、エンジンをかけてみる。静かな音が辺りに響く。
「はあー、良かった」
傷は付いたが、何の支障も無く車が動き、ミサトは安堵した。ここまで来て使えなきゃ全てが無駄になる。
もう一度車から降り、窓ガラスを丁寧に拭いてから三人は乗り込んだ。
「うーん、私のパスが通るかな?」
ゲートにカードを差し込み、暗証番号を入力するだけの至って単純なセキュリティ。あの建物に近付くのは容易ではない。それ故に入るのは比較的簡単だ…辿り着ける人間なら。
「大丈夫でしょ。向こうは待っているみたいだし」
リツコの言う事は信じられるし、加持やミサトが今まで出した結論も同じだ。現に今も警備員らしき姿も見えない。
「いつもはもう少ししたら誰かいるんだけどね」
慎重にハンドルを握りながらミサトが言う。本当に静かだ。人どころか生き物の気配がまるで無い。
「夜中だから警備が薄い…じゃ無いよな」
普通なら夜の方が警備を厚くするだろう。つまり、今は普通では無いという事。
「ははは…もう突撃だね、こうなれば」
新東京に来て以来、イマイチ気分が上がらなかったミサト。半分ヤケになる。自分の過去、学校とあの建物との繋がり、変わってしまったリツコの母親。
知りたいような、知らない方が良いような気分だったが、今は全部明確にしたくなってくる。
「あ、ハッキリ見えてきた」
昨日の観光で、遠くからは加持もリツコもあの建物は見て知っていた。しかし、どんどん近付くと、考えていた以上に大きく、威圧感がある。
(母さんは何に惹かれているのかしら)
そして、この中で何が行われているのだろう?一般庶民どころか、恐らく行政からも黙認されている場所。秘密裏に、何をしているのだろう…母は。
考えても仕方がない。行動しても分からないかもしれない。それでもリツコは後悔はしない。その覚悟はしていた。
一応、計画通り1キロ手前から徒歩に切り替えた。やはり人気は無いが堂々と建物の正面に駐車するというのも、あまりにも間の抜けた感じがする。
「これだけ遠くからでも灯りが届くのね」
建物だけを照らしている僅かな照明。今は歩くのに不自由しないから助かる。
「相当でかいな。こりゃ、全部探索してたら何日かかるやら…」
「私も一部しか分からないけど」
入れない部屋ばかりだった。"あの人"の命令通りに動いていただけ。
「みんなも興味深々ってカンジで見てたね」
昨日、建物を遠目でバスの中から見学(とは言い難いが)した時、流石に他の生徒も身を乗り出して見ていた。滅多やたらに近付けない、時期に首都になる場所。そこにある不思議な建物。
「あそこダケ浮いてるよな。誰がどう見ても」
前を向いて慎重に歩きながら加持も同意する。リツコも視線を逸らさずに頷く。
(もうすぐ…分かるのかな)
記憶が無い理由、身体の傷。自分がどこで生まれて何をしていたのか。そして、時折夢に出てくる父親。
(何が起きても大丈夫…だよね)
思わず隣の加持を見る。彼もミサトの心中を悟ったように軽く頷いた。
『俺が守るよ』
何度か言ってくれた言葉。今は加持の表情から伝わってくる。
――俺が守るよ
ミサトも同じ気持だ。加持もリツコも絶対に守る。
「忘れていたわ。これを使って」
「……何コレ?」
またリツコが変な装置を取りだし、加持とミサトに渡した。イヤホンに小さなマイクが付いたような物。
「スマホに繋げて。小声でも音声を拾えるわ。話すだけで会話が文字になるから」
万が一、逸れても居場所が分かるし、三人にしか声は聞こえないらしい。
「用意周到と言うか…」
加持は半分尊敬、もう半分は恐ろしいモノでも見るように、リツコを見詰めた。何度同じような事をしてもこればかりは慣れない。
「良いから早くしなさいよ」
便利と言えばそうだ。他人に聞かれたくは無い話もある。と言うより、殆ど聞かれたく無い話だ。加持もミサトもその道具を耳に着け、スマートフォンに繋げた。
「あっさり入れたね…」
多少の細工はしてあるかと思っていたら、いつも通りカードを挿入てみたらドアが開く。しかも、三人一斉に入る事が出来た。一人通ると閉まる仕組みだった筈。
「まあ、これは無駄になってしまったけれど、嬉しい誤算だし想定内よ。さ、行きましょう」
そう言うとリツコは自分と加持用のカードをしまった。
久しぶりに来た、やはり昼間見るのとは違って見える。夜だと一層静かだし、延々と続くかのような長い廊下。そこに三人の足音だけが響き渡る。
「…取り合えず、ドコ目指す?」
加持は唇だけを動かすような、小さな声…とも言えない位の声を発した。
「「あ、凄い。よーく聞こえるっ」」
「ちょっとミサト、うるさいわよ」
普通の大きさで話すと、かなりの大きさで相手には聞こえるらしい。思わずリツコも加持も耳を押さえた。
「あ、ゴメン。これ位かな?」
出来るだけ小声で話すと、リツコが頷く。
「全く先が見えないな」
白い廊下、薄暗く高い天井。一人で来ていたら間違いなく引き返すだろう…ミサトは内心そう考えていた。
「そうねえ。取り合えずミサトが行った事のある部屋を目指してみましょう」
行き当たりばったりよりは、多少はマシだろう。
「リツコ、迷いなく歩いてるけどなんで?」
ミサトは不思議に思って聞いてみた。先頭をきってズンズン歩いているリツコ。まるで来た事があるようだ。
「前に地図を書いてみたでしょう」
母親のパソコンとミサトの話から推測した内部の図面。リツコの頭には全て入っているらしい。
加持とミサトは思わず視線を合わせた。二人だけで会話ができない状況だが、言いたい事は同じだと思う。
「ここが仮眠室でしょう?」
ミサトが頷く。目線で促されセキュリティにカードを通した。やはり簡単に開く。
(やっぱコワイなあ)
あまり良い思いをした部屋ではないし、薄暗い。質素なベッドとモニターだけの狭い所。
「何も変わったトコは無いと思うよ」
あちこち目を光らせて何かを探しだそうとしているリツコを見て、ミサトは呟く。床に這いつくばったり、叩いたりしている。
「やる事はやるのよ。ほら、加持君!」
キョロキョロしていた加持が、慌ててベッドに乗っかり、天井付近を見渡す。ミサトもリツコと反対側から同じように見ていく。
「無いわね。次に行きましょう」
狭い部屋だ。15分程経つとリツコが言った。二人も頷き、外に出た。
(順番から言うと、検査してた部屋かな)
案の定、リツコはまた先頭を切って歩き出す。ややこしい道だ。ミサトでさえ、迷いそうになるのに、間違いなく最短距離で目的地を目指している。
「ちょっと、アンタ達」
背後で大声がして、三人は一斉に歩みを止めた。前に進む事に気をとられ過ぎた。
(……私としたことが)
自分が急ぎすぎてしまった。ここまで順調すぎる位、順調にきていた。その事が逆に気を抜く事態を招いてしまった。
こうなってしまったら仕方ない。逃げる事は不可能だ。加持とミサトが目を合わせて頷く。前にいるリツコも同じ考えだろう。
三人は覚悟を決めて振り向いた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止よっ」
リツコ、加持、ミサトを睨み付けている人物。腕組みをし、恐ろしい形相で堂々と仁王立ちをしている人物――まだ幼い少女。それを見て三人は呆気にとられた。