リツコは予定通り、一人で出発していった。本当に楽しみで仕方がない…そんな様子だった。新東京の事を計画している時や、買い物をしている時の楽しさとは、また別の感じだ。
歴史に残る英雄の跡を追う旅。正直、ミサトにはまるで興味がない。やはり、頭の良い人間は、そうした事にも興味を示す。根本的な資質が違う。
「聞いた事はあるな。あまり知られてないが、鉄舟がいなきゃ江戸は火の海だったかもしれないってハナシ」
加持も、この手の話題は好きみたいだ。教科書に載っている事すら、暗記するのが苦痛なミサトには分からない。
好きな分野なら覚えたくなるし、知ろうとする。残念ながら、ミサトは勉強はそれに当てはまらない。
「そろそろ出るか。時間勿体ないし」
部屋で体操着のまま、ゴロゴロしているミサトを加持は促した。
「だね…どっから行こうか」
メモ用紙を取り出して、ミサトは真剣に見ていた。結構マメな事をしているな…と、加持は意外に思ったが、メモを横から見て納得する。
食べ物の名前が並んでいるだけだ。
「それも楽しみの一つには間違いないな」
「一つじゃなくて一番大事よ。考えてたらお腹減ってきた」
勢い良く立つと、制服を持って隣の部屋に入って行く。すぐに着替え終わったミサトが出てくる。
「それじゃ、行こうか」
「決めると早いな。あ、着替え持ってけよ」
「なんで?」
「ま、一応」
妙な顔をしながらも、ミサトは素早く私服を鞄に入れて、玄関に向かう。
既に靴を履いているミサトの後ろを加持は追う。理由は何であれ、行動力があるのは良いところだと思う。
それに加え、カンも悪くない。寧ろ良い。ミサトを良く知る人間なら、加持の意見を否定しない筈だ。
(…この先、それが役立つかもな)
これこそ、単なる加持のカンだ。ミサトの行動力と直感。この二つは、彼女の武器になる…そんな風に感じた。
「生の魚って滅多に食べれないね」
「昨日も食ったじゃん」
「いくらでも食べれそうだよ。美味しいし」
あの大事件後、生魚は希少な物になっている。松代ではまず、お目にかかれない。
「確かに美味いな。桜エビと生シラスだっけ?これ、この辺でしか食えないしな。沢山食っとけ」
加持が言うまでもなく、ミサトは夢中で食べている。下のご飯が見えない位、たっぷりと海産物が乗っている。
有名な店らしく、同じ学校の生徒も大勢来ていた。
「やっぱ考える事はみんな一緒だね」
食べ終わり、お茶を飲みながらミサトは言う。これもまた、美味しかった。
「葛城の言う通りだな。ここだけでも赤木を連れてくるべきだった」
ミサトもそう思う。しかし、リツコはかなり遠方まで行く予定だ。時間に余裕がない。
「ま、赤木のしたいようにするのが一番か」
リツコの性格は良く分かっている。加持とミサトに遠慮をしている訳ではない。新東京の事で、頭が一杯だと思っていたが、時間を有効に使う。
全く彼女らしい考えだ。
「次は甘いものっと」
タクシーは旅行費用に含まれているので、乗り放題だ。運転手に教えてもらった店に向かう。
「これこれ。ワサビソフト」
この店が地元で一番評判が良いとの事だ。
「俺は遠慮しとくわ」
ソフトクリームにワサビ。奇妙な組合せだが、この辺の名物だから、ミサトはどうしても食べたかった。
「あ、美味しいよ。ちょっと食べてみて」
ミサトが差し出した物を、加持は恐る恐る口にした。好き嫌いはない方だが、これは勇気がいる。
「お。普通じゃん」
「でしょ?」
濃厚なソフトクリームに、後から少しピリッとワサビの辛さがくる。それが悪くない。加持も買う事にした。
「お土産買わないとね」
「旅館の近くに戻るか。あの辺は賑やかだったな」
車で通った時、いかにも観光地…そんな通りがあったのを思い出す。そういう場所をブラブラするのも楽しいモノだ。
「賛成。あそこには温泉饅頭があるし」
二人はそこへ行く事にした。
「へえ。思った以上に人が多いな」
数少ない観光地のメインストリート。老若男女問わず、人で溢れていた。
「ちょっとだけ松代に似てる」
規模は小さいが、行き交う人々が楽し気なところが、地元を思い出させる。
「なんか懐かしい。昨日までいたのにね」
旅行に来ると、家が恋しくなるみたいだ。古いアパートも、松代駅周辺も、加持の家も、ずっと遠くにあるように感じる。
「…何となく分かるな」
加持も同じ気分らしく、懐かしそうに辺りを見つめていた。
「離れてみると良さが分かるって言うが、本当にそうだな」
いつもの当たり前の暮らし。学校へ行って、加持やリツコと会う。放課後は道場へ通い、たまに加持の家へ遊びに行く。
平凡な毎日だと思っていたのに、とても充実した日々を送っている…それを改めて感じた。
「着替えようぜ」
「タクシーの運転手さんに言われるんじゃない?」
「…何のために着替え持ってきたんだよ。こっからなら歩いて帰れるしさ。戻る時、また制服に変えりゃ良いだけじゃん」
確かに制服だと目立つ。ミサトも加持の意見に賛成した。
(あの時みたい)
トイレで着替えていると、車を起きに行った二週間前を思い出す。
(…無事かな)
ほぼ確実に見付からないとは思う。一人だと心配なところだが、リツコの計画だと不思議と信じられる…大丈夫だと思える。たまに細かい失敗はするが、彼女の指示だと安心できる。
(信頼しているからかな)
「へえ。珍しい格好してるじゃん」
荷物になるから、手っ取り早く着れてかさばらない、デニムのシャツワンピースを持って来ていた。新東京から送ってくれた服だ。初めて袖を通した。
「ラクな服を選んだんだけど…変?」
「いや、凄い良い。似合ってる」
ロングのスカートを履く事は滅多にない。自然と動きやすい格好を選んでいるのかもしれない。咄嗟の時に大事な人達…加持とリツコを守れるように。
「武道をしている者のサガかな」
「…なんだそりゃ…ま、葛城らしい考えだ」
加持には考えている事が伝わったみたいだ。やはり、リツコと同様にちょっとした話や態度、行動で言わなくても分かってくれる。
気付くと加持に手を取られていた。簡単に言うと、手を繋がれている…いつもなら振り払うのに、あまりにも自然だったから、ミサトはそのままでいた。
「私服で歩いている人も多いね」
「そういうトコに頭が回るのは、みんな同じか」
普段は真面目な、進学校の生徒も修学旅行となると事情が違う。色々と情報を集めてきたのだろう。
とは言っても、ハメを外すような真似はしない筈だ。問題を起こすと進級に関わると考えている。
「ユイさんと叔父さんに何買おう」
「…非常に難しい。期待するなとは言ってあるが」
何処の店を覗いても、似たり寄ったりのお土産ばかり並んでいる。名前が入った提灯だとか、何に使うのか分からない木刀だとか。
こうした物は、昔からずっと変わらないようだ。
「無難に食べ物が…でも、無難って考えがヤダよね」
多大な恩がある人に、適当な物をあげたくはない。
「気にするな。そのうち見付かるだろ。旅館にも売店あったし。そこの方がマシだ」
それもそうだ。それに、歩いていれば何か良い物が見付かるかもしれない。
「じゃ、目的のお饅頭を…」
湯気が立っている蒸し器を指差してミサトはにっこりする。威勢の良い年輩の女性が一つ取り出して、渡してくれた。
「うーん、ホカホカで美味しいっ」
「お嬢ちゃんは彼氏と旅行かい?男前だねえ」
「オトコマエ?」
ポカンとして、店員を見るミサト。そんな風に見えるのか…と、考えていたが、店員は別の意味に捉えたようだ。
「お嬢ちゃんの年頃だと分からないか。今風に言うとイケメンってヤツよ」
観光客の相手は慣れているだろうし、お世辞の一つだと思う。"オトコマエ"かどうかは別として、加持が褒められるのは悪い気がしない。
自分が褒められるより、一緒にいる加持が他人に褒められる方が嬉しい。
(好きな人が、そういう見方をされるのって嬉しいんだ…)
「ん?好きな人?」
十個購入した饅頭を食べながら、ミサトはふと、加持の顔を見つめた。
「なんだよ?」
突然、立ち止まって見つめられた加持は、不思議そうにミサトを見つめ返す。
「なんでもない」
自覚はしていたけれど、何も考えずに口にした"好き"この言葉は重い。
「何だよ。さっきからおかしいぞ」
鋭い加持にしては鈍い。さすがに、数ヶ月もの間、練りに練った作戦を決行しようとしている前だ。思う事は沢山あるだろう。
「緊張してるかも。ちょっと」
誤魔化す事にした。加持は昨夜とは、頭を完全に切り替えている。
「…だよな」
松代に似ている風景の中にいると、一種のホームシックみたいな感覚に陥り、加持もナーバスになっているようだ。
叔父に隠し事をして、ユイは何も聞かないで、色々協力をしてくれている。ミサトは失う家族も、待っている人もいない。それが加持との差だ。
「無事に帰るのが、一番の土産だな」
「帰れるに決まってるでしょ」
繋いだ手に、少しだけ力がこもる。表情はいつもの加持だ。何も考えていないようで、冷静に物事を見ている。そんな加持の弱さを悟る。滅多にない事だ。
「頼もしいな。葛城は」
無鉄砲に行動をしている人間を見守るのは、相当負担がかかる。待つ身は辛いとはこの事だ。この場合は、ユイにその役割を一人で背負っている。
「あっちに海あったよね?」
「やはり気が合うな。葛城と俺」
「海があるって、言っただけだけど」
加持は意地悪く笑う。本当に切り替えが早い。先程とは違う。普段の加持だ。
「見たいんだろ?行こうぜ」
大抵の人間は海が好きだと思う。余程嫌な出来事がない限り。ヒトはここから産まれ、還って行く…そんな説もある。
「ここも多いな」
お世辞にも、綺麗とは言えないけれど、みんな集まってくる。やはり、考えは同じらしい。加持もミサトも例外ではない。
「冷たいんだけど、温かい感じがするんだよね」
寄せてくる波を、手で触れながらミサトは言った。
「水温がって、ワケじゃないよ…海に来るとね」
「…そうか」
分かる気はする。寂しかったり、落ち込んだ時、海に来る話は多い。広く雄大な自然を見ていると、ちっぽけな出来事なんか些細な事だと思えてくる。
でも、ミサトの言葉は他の事を示している気がした。
「ここから、色んな国に繋がってるんだよね。不思議」
「外国か。行ってみたいな」
「行った事、ないの?」
「ないない。そんな余裕なかったし」
言いながら、引っ掛かる。ミサトの言い方だと、彼女は外国へ行った事があるような感じだ。
「葛城はあるのか?」
少々迷ったが、加持は聞いてみる選択をした。過去の記憶に繋がるかもしれない。話したければそうするだろうし、分からないなら構わない。
「うーん…あったかも」
曖昧な答えだ。ミサトも分かっていない…深く考えずに言ったようだ。
(冷たくて、温かいか)
海の事でも、場所の事でもなさそうだ。ミサトの過去の話となると、加持は敏感になる。
もしかすると、父親の事か…そんな風に思ったが、口にするのは止めておく。
「二度目だな」
「また来たい。今度は泳ぎに」
「ああ。泳いだ後の風呂は最高だ」
「行った事あんの?」
「ないけどさ。良く言うじゃん」
そう言うと、加持はミサトの横に座って、同じように手を水に浸す。温い水だ。暑い日射しの中では物足りないが、なかなか気持ちが良い。
「冬休みに叔父さんとユイさんを旅行に連れて行くって約束したんだが」
「良いね。叔父さんも元気になったし」
加持なりの二人に対する思いやりだな、と思う。心配をかけたから、何か形にして返したい…そんなところだろう。
「葛城も一緒に連れて行きたいが」
何となく、含みのある言い方だ。加持に視線を移すと、彼もミサトを見た。先程の威勢の良い店員の言葉を思い出す。
一般的に見ると、オトコマエ…格好良いのだろうか。特別に整った顔立ちではないと思う。少し目尻が下がっているし、口は大きめだ。
顔がどうとかではなくて、加持の持つ雰囲気は、異性を惹き付ける。ミサトには分かっていなかったが。
それを抜きに、普段は見せない別の部分…弱いところや、寂しがりなところ。そういった面もひっくるめてミサトは惹かれている。
「私が着いてったら悪いよ」
「いや、二人共喜ぶけど…どうせなら二人きりで行きたいしな」
昨夜もそんな感じの話をした。加持は全く照れもせずに当たり前のように言う。相手がそうだと、反発したくなるモノだ。
けれど、何故かそんな気にもなれない。
「…行こうね。いつか」
「いつかじゃない。近々だな」
「それは…」
どう答えて良いのか、分からない。漠然とした約束ならできるが、はっきりとした約束は覚悟がいる。
「そう構えるなって。葛城が都合の良い時で良いからさ」
絶対に無事に松代に帰れる補償はない。口では強気な発言をしているが、加持もリツコも相応の覚悟はしている。
でも、それを踏まえた上でいい加減な事を言っている訳でもない。自分で言った言葉に、二人は責任を持つ。
「行こう。どこかは分からないけど、加持とならどこでも行く」
ミサトも適当に濁す事はしない。必ず無事に帰るのは前提だ。
「ああ。約束だ」
伝わっていると思う。加持がミサトの頭を撫でる。その手が温かい。そこから、様々な思いが感じられる。
(冷たくて温かいんじゃなくて、温かいな)
「リツコ遅いね。間に合うかなー」
班で行動しなければならない事になっている。待ち合わせのレトロ…と言うより、古い喫茶店。そこでミサトは時計を見ていた。
「こういう時間はムダに厳しいんだよな。学校ってトコは」
アイスコーヒーを飲みながら、加持は答えた。年中暑くてもホットを飲むが、エアコンが殆ど効いていない。
「夢中になってるのかな。連絡してみるよ」
携帯を取り出して、ラインを入れてみる。暫くすると、返事が返ってきた。
'悪いわね。つい足を延ばしてしまったの。もうすぐ着くわ'
「赤木らしいな」
慌てる風でもなく、加持は呑気に腕組みをしながら頷いた。
「それにしても暑いな」
加持もミサトも、アイスコーヒーを、もう一杯頼み、勢い良く飲み干す。この辺は、事件前から温暖な気候だ。現在はそれを通り越し、蒸し暑い。
「温泉入りたい…」
「…同意だ」
海風にあたり、体がベタベタしている。加えて今の暑さ。この後の温泉は、さぞかし気持ち良いだろう。
「まだ足りない。スッキリしたの、飲みたい」
赤い顔をしたミサトがメニューを見ながらぼんやりと言う。
「腹壊すからやめとけ」
そう言いつつも、溶けかかった氷の残るグラスを加持は一気に喉に流し込む。程無くして、ドアの開く音と共に、充実した表情のリツコが現れた。
「遅くなって悪かったわね…楽しかった!」
ミサトの横に座ると、リツコはホットコーヒーを注文した。
「無事で良かった。まだ少し時間あるし…けど、ここ暑いよ?」
「タクシーの中がエアコン効きすぎていて寒いのよ」
結局、加持とミサトもオレンジジュースを追加した。
「その様子じゃ満足したみたいだな」
いつになく浮かれているリツコを見て、加持が声をかけた。
「ええ。おかげさまで。でも、忘れてはいないわよ」
リツコの表情が引き締まる。これからが本番だ…そんな顔。
「ああ」
「うん。頑張るよ」
三人は視線を交わしてから、誰からともなく右手を差し出し、固く握りあった。