「おはようございますっ」

エンジン音を聞いて、ミサトは外に出た。集合時間が早く、始発では間に合わない。ユイが迎えに来てくれる事になっていた。

「おはよう。ミサトちゃん。良い天気ね」
「良く起きれたな。まだ寝てるかと思ったよ」

確かに眠い。昨夜は殆んど眠れずにいた。興奮と楽しみで。

(…格好いい車)

車は定期検診に出したから、ユイは代車にと称してレンタカーに乗っている。叔父に対する言い訳だ。

「車、どうしたんですか?」

後部座席に座りながら、不思議に思ってミサトは訊ねた。フィアットのパンダ…だったと思う。かなりマニアックな車。こんな車を借りたら、叔父に疑われそうだ。

「狭くてごめんね。買っちゃったの」
「もしかして、私がキズをつけたから…」

ユイは軽快にハンドルを握りながら首を横に振る。

「あれも乗るわよ。これはセカンドカー。利便性はないでしょ。でも、欲しかったの」

やはり、ユイも相当車好きみたいだ。武道もそうだ。ミサトと趣味が合う。

「葛城と似てるな」

加持もそう思ったようで、ミサトの方を向いて笑いながら言う。

「楽しんで来てね」

何か企んでいるのは、分かっているだろう。それとは別で、純粋に楽しんで欲しい…ユイはそう思っていた。

「帰ったら、すぐに会いたいです」

単に、礼を言いたいというのもあるだろう。だが、旅行が終わればユイに打ち明けたい…ミサトの言葉を、そんな風に加持は取った。勘繰り過ぎかもしれないが。

「待ってるわ。くれぐれも気を付けて。いってらっしゃい」
「叔父の事、宜しく」
「大丈夫。もう一人で何でもできちゃうから。赤木さんにも気を付けるように言っておいてね」

学校の少し手前で車から降りる。加持とミサトはユイが見えなくなるまで見送っていた。

「ミサト、加持君」

二人の前に停まったタクシーからリツコが降りてくる。三人揃うと、待ちに待った日が来た…そんな雰囲気になる。

「おはよ、リツコ」
「ミサト。昨日も確認するように言ったけれど、車の鍵は持ったわね?」

ミサトは鞄を開いて、家の鍵と一緒に付けてある、キーホルダーを取りだし、リツコに見せた。これを忘れたら全てが台無しだ。

「なんだか心配ね…私が預かるわ」
「そうしてくれると安心かも」

任せた方が確かに良い。ミサトは鍵を外して渡すと、リツコは慎重にキーケースに収めた。

「じゃ、行きますか」

のんびりと加持が言うと、リツコもミサトも歩き始めた。二クラスしかないし、生徒の数も少ないから、静かな出発だ。それでも、いつもよりは賑やかではあるが。

「眠い」
「バスの中で寝なさいよ。どうせ着くまで暇だし」

シズオカまでは遠い。いくらでも時間はある。加持も寝る位しかする事はないだろうと考え、三人は一番後ろの席に並んで座った。ここならゆとりがある。

「おっはよー加持」

(…げっ)

すっかり忘れていた存在。アホ男は何故か加持の隣に座ってくる。

「席なら空いてるだろ。他に行けよ」
「つれない事、言わない言わない。せっかくだし、楽しくやろうぜ」

おまえが隣で楽しくやれるワケがないだろ…内心思ったが、口に出すのも面倒だ。加持は黙って目を閉じた。



バスが出発して暫く経つ。リツコは本を読んでいるし、ミサトは熟睡中。加持も眠りたかったが、アホ男が喋り続けるので、うるさくて眠れない。

(…仕方ねぇな)

ミサトの肩に手を回し、寄りかかる。起こしてしまうと厄介な事になるが、そんな気配はない。

「ちょっとジャマしないでくれよ、な?」

わざとらしくミサトの髪を撫でると、アホ男は目を逸らした。

「な、仲がよろしいコトで…」

(…あら、面白いわね)

リツコが本から目を離さずに、チラッと横目で加持を見た。ようやくアホ男から解放され、安堵しているらしい。

(この人も自分と無関係の人間が苦手なのよね)

松代を出て、一本道に入る。暫くは特に眺めて楽しい景色もない。リツコも一休みしようと本を横に置いた。

加持とミサトは寄り添うように眠っている。

(呑気だこと…)

これから大仕事が待っているのに、良く寝れるものだ。でも、ミサトのこうした部分がリツコは好きだった。お腹が空けば食べる、眠たければ寝る…感情のままに行動する。自分にはない部分。

(…辛い事を背負っているのに)

加持にもミサトにも、幸せになって欲しい。この先に何が起きたとしても、離れ離れにならないでもらいたい。二人には。

そして、自分も二人と繋がっていたい…進む道は違っても、心は離さずに。リツコは心の底からそう願った。


「結構楽しいね」

一つ目の観光。有名な滝を見学する。バスを降りる前は、眠いし行きたくない…そう思っていたが、初めて見たそれは、壮観だった。

「シライトの滝よ。昔はもっと凄かったみたいね」

リツコが説明してくれる。今でも十分迫力がある。近くで見ると、水飛沫がかかって気持ちが良い。

「良いよな。自然ってさ」

加持も、柵に頬杖をつきながら見入っていた。どちらかと言うと、人混みと人工的なネオンの街に居るのが似合う。ミサトは意外だなと思った。

ミサトも加持の隣で、同じような姿勢をとる。ただ水が流れているだけなのに、不思議と飽きない。

(…加持といるからかな)

普段と全然違う場所だからか、旅行で浮かれているから分からない。いつもより、加持が眩しく見える。

「前も感じたような…」
「何?」

口にしていたらしい。独り言は癖になっている。

「ううん。ちょっとね」

海に行った時だ。それほど昔の事でもないのに、ずっと前のように感じる。今、ここで、こうしている事も、何ヵ月か後には、昔のように感じるのかな…そう考えると、ミサトは何となく寂しくなる。

「お邪魔して悪いけれど、そろそろ集合時間よ」
「もうちょっと見てたいな」
「また来ましょうよ。いつかね」

眠い眠いと言っていたのに…リツコは少しおかしくなる。何にせよ、目の前の事を楽しめるのはミサトの良いところだ。

「滑るから気を付けなさい」

リツコが慎重に前を歩く。こう言い出した人間の方が、気を抜く事が多々ある。加持もミサトも嫌な予感がした。

「きゃああぁっ」

軽く足を取られ、リツコは悲鳴をあげる。ミサトは咄嗟に腕を取って、逆の手で背中を支えた。

加持はたまらず吹き出した。

「やると思ったぜ。赤木って案外抜けてるよな」
「何ですって!?」
「あーもう、喧嘩しないでよ。リツコ、大丈夫?」

体勢を立て直すと、ミサトはリツコと腕を組んで歩き出した。

「やあね…少し油断しただけ。平気よ」
「心配だから、こうしてる」

リツコが二度、同じドジを踏む事はしない。単純にこうやっていたい…それだけだった。

自分が守ると決めたからじゃない。リツコと腕を組んでいたかった。何故かは分からないけれど。

(旅行先だからかな)

楽しいけれど、今現在が幸せだから、先の事が不安になる。このままでいたい…リツコと加持と一緒に。

(…考えるのやめよ)



一日目の宿に着いた。古くから残っている、老舗の温泉宿だ。風呂好きのミサトとしては嬉しい。

「…広い部屋」

七人は寝られそうだ。ベッドも二つ置いてある。リツコとミサトだけで泊まるのは贅沢過ぎる程だ。

「良いわね。風情があるわ」

リツコは窓を開けて景色を見ていた。海が真正面に見える。その上には山が連なり、丁度暗くなり始めてきたので、夜景も綺麗だ。

「ご飯は下で食べるんだよね」
「グループで個室。加持君といれるわ。私はお邪魔よね」
「リツコといたいな」

勿論、加持とも一緒にいたいけれど、リツコとゆっくり過ごす機会はあまりなかった。新東京の事を今は忘れて楽しみたい…ミサトはそう考えていた。

「私とは同じ部屋なのよ。いくらでも時間ならあるわ」

そう言いつつも、リツコも気分が良さそうだ。ずっと窓を眺め続けている横顔は、やはりいつもと少し違う。

(知らない場所に来ると、リツコも嬉しいのかな?)

家と学校、塾の毎日だ。そんな日常から抜け出してみると、開放的になる。リツコでも。

「そろそろ夕御飯じゃない?」

景色に見とれているリツコに声をかけるのもはばかられるが、食事は楽しみの一つだ。特に、ミサトには。

「もうそんな時間なの。行きましょうか」



夕御飯は豪勢だった。普段はあまり食べる事のできない、生の魚介類がメインで、どれもこれも美味しかった。

「良くアホ男を巻けたわね」

一通り食事を済ませると、リツコがからかうように加持に聞いた。

「赤木が恐いからな」
「肝の小さい男ね」

加持の言葉をリツコはすんなり流す。やはり、機嫌が良いようだ。食も進んでいる。

「さてと、一休みするか」
「寝てばかりね」
「食ったら眠くなるモンだ。後でな」

外出は当然禁止だし、風呂に入る位しかない。リツコとミサトも一旦、部屋に戻る事にした。



「お風呂、行かないの?」
「ちょっと、運動してから」

これだけ広ければ、十分な稽古ができる。一週間以上、道場に行っていない。ミサトは急に稽古が恋しくなる。

「なら、待ってるわ」
「え?先行ってて良いよ」

何となく、練習している姿をリツコに見られるのは恥ずかしい。

「せっかくだし、一緒に入りましょうよ」

いつ、どんな状況で、誰がいても動じず、稽古ができなければ駄目だ。それこそ武道たるもの。椅子に座って本を読み始めたリツコは、待つ気だ。

「分かった。ちょっと集中するけど」
「邪魔はしないわ。私も続きを読みたいの」

手技、足技の基本動作を終えると、かなり汗をかいた。毎回同じ事を繰り返しているのに、日によって感じが違う。

単調な技を何千回もする…こうする地道な努力が何よりも大切だ。日常生活にも当てはまっていくのが理想だが、ミサトはそこまでたどり着いていない。

(良くまあ、一人でできるわね)

いつの間にか、本を読む手を止めてリツコはミサトを見ていた。うるさかった訳ではない。寧ろ、静かな動きだ。

リツコは勿論、詳しくはないが、目の前に何か目標物があれば、叩いたり蹴ったりはしやすいだろう。

(これがミサトの強さかもね)

不器用だし、だらしないが、いざという時は頼りになる。頭の回転も悪いとは思わない。

それを上手く活かせていないが、それもミサトの個性だし、リツコの好きな部分でもある。

(…加持君もそうなのかしらね)

「ごめん、邪魔しちゃった?」

リツコが自分を見ているのに気付き、汗を拭いながら、ミサトは言う。

「いいえ。素晴らしい集中力ね」
「ずっとやってるから慣れてるだけだよ。お風呂、行こうか?」



部屋も広ければ、風呂も広い。温泉だから当たり前だが、初めて来たので驚く。リツコは予備知識はあったが、実際目の当たりにするのと、本で見るのとでは違う。

「これって、地下からお湯が出てるんだよね?」
「ええ。普通のお湯とは違うのよ」

効能とやらが、説明してある。リツコはそこを指差した。色々書いてあるが、とにかく体に良いらしい。

「それっ」

体を洗うと、ミサトは勢い良く湯船に飛び込んだ。マナーとして、いかがなものかと思い、たしなめようとリツコはしたが、やめておく。

貸し切りだし、今は構わないだろう。

(いつか、また行く事があったら注意するけどね)

リツコは静かに足を湯につける。少し濁った湯は、ツルツルとしていて気持ちが良い。

「はぁー。生き返る…」

岩に寄りかかって、ミサトは目を閉じて堪能していた。全身の疲れを拭い去ってくれる感じだ。

(…こんな天国、この世にあったんだ)

うとうとしていると、窓ガラスを叩く音がして、ミサトは目を開けた。リツコが外から呼んでいる。

「へー。階段を降りると別のお風呂があるんだ」
「露天風呂って言うのよ」

小さな風呂だけど、景色も見れるし、何より自然に囲まれて入る風呂は格別だった。



「最高だったね」

部屋に戻って、麦茶を飲みながらミサトは寝転んでいた。暫くそうしていると、扉の向こう側から加持の声がした。

「俺。入って良い?」
「開いてるよ。どうぞ」

加持も風呂上がりらしく、髪の毛が濡れている。ミサトは座布団を枕代わりにして、うつ伏せで寝転んでいた。彼女の周囲だけ、見事に物が散乱している。

ここまで散らかせるのは、一種の特技だ。加持は突っ込む気にもならない。

「鍵はしとけよ。危ないだろ?」
「学校の人間しかいないし」
「女二人だけだぞ?危機感が足りないっつーか」

この二人以外は皆男だ。いくら何でも無用心過ぎる。

「ミサトや私に何かする人間がいるのかしら?」

持参したらしいコーヒーを、優雅に飲みながらリツコは冷めた口調で加持に言う。

「そりゃそうだが…」

リツコに説教をしても時間の無駄だ。加持は、寝る時だけはしっかり鍵をかけるように言った。

「加持こそ、頭濡れてるじゃない。風邪引くよ」

転がっていたドライヤーを手に取ると、ミサトはコンセントを入れて加持の髪の毛を乾かし始めた。

「随分とまた、親切だな」

好きな女の子に、こういう事をしてもらうのは嬉しいモノだ。特に、マメに動くタイプではないミサトにされると。

「広い温泉に入れてミサトはご機嫌なのよね」

(なるほど)

リツコが加持にコーヒーを差し出しながら言う。軽く頭を下げて礼をした。彼女も機嫌が良いみたいだ。

普段、邪険にされている身としては喜ばしい。

「私、消灯前にもう一度入ってくるわ」

リツコはそう言うと、さっさと支度を始める。

「なら、私も…」

慌ててタオルを掴んだミサトにリツコは小声で囁く。

「(…気を効かせているんだけれど。それくらい察しなさいよ)」
「(私はそんなんじゃ…)」
「(加持君が可哀想でしょう。この後、アホ男と一晩中過ごさなくてはならないのよ)」

言われてみれば、加持は二人以外、友人という存在がいない。自ら望んでそうしているから、本人は全く気にはしていないが。

(…ま、良いか)


「この部屋、特別だな」

加持の部屋からは、かろうじて海が見える程度だ。真正面に見える景色と、部屋にあるベッド。広さは大差ないが、細かな部分に差がある。

「そうなの?そっちも見てみたいな」
「アホ男がヒビるから止めといてやれ」
「私だって無差別に手も足も出さないよ」

すっかり忘れていた事だが、思い出してみる。言葉の暴力に対抗したまでだ。手加減はしたけれど、やはり結果的に武道を喧嘩紛いに使ってしまった事は、後悔していた。

反省しなくてはならない。かと言って、今更謝る気にはなれない。

「ああ、気にすんな。昔の話だ」

何も言わなくても、加持は分かってくれる。リツコもそうだが、ウマが合う…簡単に言うと、そんな感じだ。

「それに、今日は四人部屋だ、野郎の中には呼べない」
「だから、抜けてこれたんだ」

加持につきまとうだろうと考えていたのに、夕飯の時もついて来なかったのは、そういう理由らしい。

「いつか、また来たいね」

今も楽しいが、楽しんでばかりはいられない。何も考えず、あの夏休みのように過ごしたい。素直にそう思う。

「来れるさ…その時は、我慢しないぞ?」

手のひらを重ねて、加持は耳元で冗談っぽく言う。何の事かミサトは一瞬、考えて加持の目を見る。口調はふざけているが、視線は意外に真剣だ。

「良い…と思うよ」

他人事のように言ってしまう。ミサトも分からない。恐さはあるが、加持ならかまわないと、やはり思う。それは変わらない。

「大きな事は何も望んでないが」

夢も野望も、加持にはない。極々普通に暮らして、平凡で平穏な日々を送れさえすれば良い。

実は、それは難しい事だ。人並みの幸せを手にするという事。簡単なようで、意外に困難だ。

「加持らしいような、そうでないような…」
「がっかりした?俺は葛城さえいりゃ、幸せだ。つまんない男だろ」

本当にそうなのかは分からない。それに、ミサトとずっと一緒にいれるか…それが一番難しいかもしれない。

「がっかりなんてする訳ないじゃない」

ミサトも自覚はないが、何となく分かっていた。多分、いつまでも平和な生活は続かない…記憶が戻ったら、どうなるか分からないし、あの男はミサトを必要としている。

今は隣にいても、いてくれるのが当たり前でも。加持の肩に頭をもたれ、暫く考えていた。ミサトの腕を掴むと、自分の胸の中に加持は押し込める。

「赤木には内緒だぞ」

両手でミサトの頬を挟み、加持は唇を重ねた。

(この人が…加持が大切)

触れていると、本当にそう感じる。なくてはならない存在に、加持はなってしまった。自分から背中を強く抱きしめる。広くて温かくて、安心する。

「…加持」
「ん?」

"好き"と、言いたい。分かってはいると思うけど、言葉にして伝えなくなる。不意にそんな気持になり、ミサト自身も不思議だった。

「あのさ…」

加持の胸の中に自分はいる。目を閉じて更に腕に力を込めた。ここは本当に居心地が良い。良すぎて、何もかもどうでも良くなりそうだ。

「どうした?」

少し体を離して、加持はミサトの顔を見る。ミサトは慌てて視線を逸らす。目を合わせられるのは苦手だ。見透かされそうで恐くなる。

「なんでもない」
「なんでもない…って顔じゃないだろ。言ってみな」
「ホントになんでもないっ」

横を向いて加持の視線を避ける。やはりダメだ。慣れない事はしない方が良い。

「ふーん。意地でも言わせてやる」

意地悪く微笑むと、ミサトの脇の下に手を入れて加持はくすぐり始めた。鍛えていても、ここばかりは弱点だ。

「ちょっとやめてー!くすぐったいってばっ」
「やめてと言われると、余計にやりたくなるモンだ」

笑いながらミサトは涙を流す。手にも足にも力が入らない。こういう場合、どうすれば反撃可能か、回らない頭で考えてみたが、武道の技にはない。

加持は急に真面目な表情をすると、ミサトの肩を掴んで畳の上に押し倒す。

「…何すんのよ」

一応、抵抗するような発言をしたものの、ミサトの声は加持の行為を否定していなかった。

「少しだけ、このままでいさせろ」

イヤじゃない。寧ろ、ミサトもそうしていたかった。自分だけじゃない。加持も不安なんだ…何に対しての不安なのか、分からないのも、多分同じ。

(…加持も結構強がりなんだよね)

昔の事は知らないが、今はミサトにしか見せない弱さ。そういうのは嬉しいし、同志であり、似た者同士なんだな、と感じる。

「そろそろ行くな」

名残惜しそうに加持は小さな声で言う。このままこうしていたいけれど、離れがたくなってしまう。ミサトは体を起こした。

「赤木に見られたら何言われるかコワイしな」

それもあるだろうけど、言い訳だ。分かっていたが、ミサトは言わなかった。

「明日は自由時間だし。またね」

加持は頷くと、立ち上がった。玄関でもう一度ミサトの手を握り、頭を軽く叩いてから出ていった。

「おやすみ」
「ああ。明日な」



夜中に目が覚めた。寝返りをうって時計を見ると、まだ一時を回ったばかりだ。隣のベッドでリツコはぐっすり寝ている。

一旦起きてしまうと、なかなか再び眠りにつけない。昼間、バスの中で眠り過ぎたので仕方がないとは思う。

ミサトは目を閉じて、暫く眠ろうと努力した。

(やっぱ寝れないや)

なんだか喉が乾いてきたので、取り合えず、水を飲みに行こうと考え、ベッドから降りた。

「眠れないの?」

背後から声をかけられ、一瞬びっくりする。

「ごめん、起こしちゃった?」

上半身だけ起こし、ミサトを見ているリツコ。カーテンの隙間の月明かりから、表情が見える。寝起きでも、いつもと同じように、シャキッとした顔だ。

「良いのよ。緊張してるの?」
「そうじゃないけど…バスで寝たからさ」
「授業中寝てても、夜も寝るでしょう?」

リツコが笑いながら言う。確かにそうだ。やはり旅行先だと、緊張というか、興奮するらしい。

「何か淹れるわ…コーヒーも紅茶も余計に眠れなくなるわね」

リツコもベッドから降りて、机に向かった。ミサトも電気を点けて座椅子に座る。

「ホントごめん」
「たまには夜更かしも良いかもしれないわ」

何処と無くリツコは嬉しそうだ。湯を沸かして、何か変わった香りの飲物をミサトの前に差し出す。

「ありがと。これなに?」
「ハーブティ。ラベンダーが入っているから睡眠効果があるわ」

初めて見た飲物だ。嗅いだ事のない香りがする。一口飲んでみたが、美味しいとは言えない。けれど、体も心も温まる感じがする。

「リツコって、何でも詳しいね」

勉強ができるのは当然として、色々な事も知っている。一つの事に長けていると、他がおろそかになりがちだ。

綺麗だし、女の子らしい可愛さもある。たまに妙な事を考えたりするのも愛嬌のうち。変な機械や偽造を頼む人間と繋がりがあるのはコワイが、それもまた人徳とも言えなくはない。

「明日の自由時間だけど、加持君と二人で行動しなさいよ」
「なんで?せっかくの旅行じゃない。リツコも一緒に行こうよ」

ハーブティを飲みほして、座椅子にもたれていたミサトは、リツコの言葉を聞いて体を起こした。

「せっかくの旅行だからよ。良いでしょ。知らない場所でデートも」
「だからリツコとも一緒に行きたいよ。加持だってそうだと思うし」

三人でいるのがミサトは好きだった。言葉にした事はないが、加持も同じように思っていると感じる。気心の知れた人間といるなら、彼は何でも楽しむタイプだ。

「昼間も言ったけれど、私とはこんな風に部屋で話せるわよ。それに、一人で回ってみたい所があるの」

気を遣って言ってくれている訳ではないと思う。リツコも加持同様、一人で行動するのは苦にならない人だ。

「あなたは食べ歩きでもするんでしょう?」

ミサトの顔をじっと見ながらリツコが言った。その予定だ。旅行とはそれが醍醐味。それは昔から変わっていない。確かに彼女は食が細い。興味がなさそうだ。

「リツコが行きたい所って?」
「歴史が好きなの。鉄舟とか。彼が清水次郎長と落ち合った家に行きたいわ」

それと、昔は世界遺産だった場所もシズオカにはあるみたいだ。そこに行きたいとリツコは考えていた。

「加持君は学校で男子の友人はいないけど、本人は居心地良く思っているわよね」

その通りだ。加持はしたいようにしている。

「誤解しないで。私はミサトと加持君といるのはとても楽しいわ」

本当にそう思っているのは分かる。ミサトは勿論、加持もそうだ。

「ミサトと一緒だと楽しいの」

少しだけ頬を染めてリツコは言う。つられてミサトも何となく照れてくる。

「わ、私もだよ。何度も言ってるけど」
「一人でも楽しいわ。でも、二人でいると更に楽しい…そういう関係って素敵じゃないかしら」

恋人同士の程好い距離感を例えた言い方。それは友人関係にも当てはまる。リツコがそうしたいなら、それで良い…ミサトもそう思って、頷いた。

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