「なんだよ?ジロジロ見て」
ミサトの視線が気になって仕方がない。自分の事を遠慮がちにチラチラ見ては、ブツブツ訳の分からない事を言ったり、何か考えたりしている。
昨日の今日だ。加持は機嫌が良いとは言えない。
「み、見てないけど。自意識過剰じゃないの?」
「意識してんのは葛城じゃん」
「してないってば!」
(明らかにしてんじゃん)
ユイと話をして、落ち着いたというか、現実にやらなければならない事が迫ってきているのを感じ、一旦は加持の事は頭が離れた。
しかし、本人を目の当たりにすると、嫌でも考えてしまう。
「あーあ。もうちょっとだったのになぁ…」
「ストップっ」
電車の中だ。小声で話していても、周囲に会話は洩れる。ミサトは加持の口を手で塞いだ。
「(せっかくなあ。葛城がその気に…)」
「(うるさいっ)」
「(恐い?そんなに)」
朝っぱらからするには相応しくない話題だ。
「(無理。絶対無理だよ)」
加持が思っていた以上に、ショックを受けているようだ。ミサトの顔はひきつっている。
「(組手の方が恐いと思うが)」
「(それとアレとは別)」
諦めはつかないが、無理強いする訳にもいかない。なるようになるとは思うが、裏を返せばなるようにしかならない…そうとも言える。
「(時が来るまで待つよ…気長に)」
大体、昨日は無理があった。勢いで試みようとしたが、叔父とユイがいる。留守の隙を狙ってするのも抵抗がある。
電車を降りて歩き始めると、ミサトは閉ざしていた口を開く。
「ごめん」
「謝るコトはないって」
素直な気持ちだろうけれど、謝罪される事でもない気がする。そうされる方が加持からすると、自分が悪い事をしたような気分になってしまう。
「…怒ってる?」
「んなコトないって。その気にさせるさ…俺が」
ようやく加持も笑った。心からの笑顔ではないのはミサトも分かっている。溜め息混じり…そんな感じ。
「まあでも、他の男に取られる心配はないな」
「そんな事あるワケないでしょ。加持だから、その…」
目線を逸らし、横目でキョロキョロ辺りを見ているようだが、ミサトの視界には何も入っていない。鞄を振り回しながら、俯いたかと思ったら、いきなり顔をあげたりしていた。
一言で表現すると、かなり挙動不審だ。
「"俺だから"何?」
言いたい事は分かっているが、加持としてはミサトの口から聞きたい。これくらいの意地悪の一つは許して頂きたい。
「…分かるでしょ」
「分からないな…"俺だから"どうなのかなー?」
真っ赤な顔をして、ミサトは拳を突き出す。加持は上手く腕で避けた。口より手が早いのは知っている。今度は蹴りが飛んでくる。これも察していた。脚を上げてかわした。
「どうした?俺ごときに避けられるとは。雑念がある証拠だな」
「うっさいっ」
ムキになると、余計に意固地になるモンだ。聞きたい言葉なんて言ってくれなくなる。もう勘弁してやろう…加持は思った。
「イヤじゃないだろ?」
立ち止まって、ミサトの目を見て真剣な表情で加持は問う。
「そういうんじゃなくて、ちょっと心の準備がいるというか…」
ミサトは目を逸らす。加持の顔をマトモに見る事ができない。肩を軽く叩かれると、間近に加持の顔があり、後退りそうになる…けれど、真剣な表情につられて、それを留まる。
「…俺は男だからな。分かんないが」
「やっぱ怒ってるでしょ…」
「だから、それはないって」
一転して、難しそうな顔になる。ミサトは何か考え込んでいるみたいだ。頭を掻いたり、腕組みをしたり落ち着きがない。
暫く黙って加持は見ていた。これはこれで、興味深い。考えた末に、何を言い出すのか。
「知らないからコワイんだ」
右手を握りしめて、思い付いた…という風にミサトは言う。
「そうよ。分からないからコワイんだ。なら、調べてみれば良いんだ」
「…調べるって、ちょっと待て」
加持の言葉を無視して…というより聞いていない。ミサトは再び歩き始める。
「知識があれば覚悟もできるよね。待っててね」
「いや、それは違うような…」
後ろから声をかけても、やはり聞いていないらしい。ミサトは一人で納得して頷いていた。
「勉強は苦手だし、他にやらなきゃなんない事もあるから、暫く先になるけど頑張るね」
(…ズレてる)
ミサトはユイと運転の練習に没頭していた。なかなか上手くなったと思う。ユイにも褒められた。だからと言って危険は付き物だ。馴れてきた頃が、一番気を抜きやすくなる。
気を引き締めて挑むべきだ。弛まずに。
(頑張らないと…)
自分が加持を、そしてリツコも守る。隣で教えてくれているユイのためにも。
(でも、怒ってるみたいだったな…)
どうしても、加持の事が頭から離れない。呆れたような顔をしていた。
(…考えるのやめなきゃ)
ミサトはハンドルを握りしめて集中した。
何日かすると、やっと修学旅行の話が担任から説明される。配られたレジュメをパラパラと捲り、ミサトは隣の加持と目を合わせて頷きあった。
「(リツコの予測通りだね)」
唇だけ動かしてミサトが言うと、加持も目で合図する。
「(ああ。さすが赤木だ)」
ホテルは三つの候補の中で、一番高級な所だ。ヨーロッパかどこかの、老舗。その日本支店だ。名前くらいは他の生徒も聞いた事があるらしく、珍しく教室がざわついた。
「部屋はこちらで決めてある。班は今から時間を与えるから、各自で決めなさい」
「加持、宜しくな」
部屋割りの事は全く頭になかった。宜しく…と言われて、その生徒の顔を見る。
「すまん。誰だっけ」
「酷いな。つーか、俺が酷い事をしたんだよな。あの時はごめん」
(あの時?なんだよ、それ)
謝られる覚えはないが、良く良く彼の顔を見ると、昔の事を思い出した。
「おまえ、居たのか…」
アホ男だ。ミサトに蹴られ、リツコに張り手を喰らわせられた男。
「居たのかって、もう二年生も後期だけど…」
クラス関連の事は全然興味がないから、加持は忘れていた。彼にされた事も。当然、怒りはない。そんな昔の話はどうでも良い。
「一緒の部屋みたいなんで。宜しくな」
「あ、そう。宜しく」
素っ気なく加持が言って席を立とうとすると、腕を掴まれ止められる。
「何か用?」
「あの時は本当に悪かったって。せっかくだし仲直りしようぜ」
仲直りも何も、忘れていたし仲違いした訳でもない。何故自分に媚びてくるのか加持は少々考えた。コイツ…アホ男と連るんでいた連中がいない。
二年に上がれなかったのだろう。だから、コイツも大人しくなっていた。
「気にしてねえから。おまえも忘れろ。それじゃ…」
立とうとすると、今度は肩を掴んで制される。早くリツコと話をしたいのに、時間を割かれて少々加持も苛々してくる。
「なんだよ。もう用はないだろ」
「加持、本当に許してくれ…」
「だから、何とも思ってねえって」
さっきからリツコもミサトも加持とアホ男のやり取りを面白そうに眺めていた。彼もそれに気付き、頼み込むような声で訴える。
「赤木と葛城と仲良いだろ?」
「それがどうかすんの?」
言いながら、加持は察し始めた。リツコは学校での権力者みたいな感じになっている。色々と誤解や誇張も混ざっているが、彼女に逆らってはいけない…簡単に言うと、そんな雰囲気だ。
(長いモンには巻かれろ…ってヤツか)
そのリツコと親しくしている加持も、そういう目で見られているようだ。全くの勘違いだが。
「俺の態度も悪いのは事実だ。すまなかったな。ま、昔の事は水に流そうぜ」
時間を取られたくないので、適当な事を言うと、ようやく彼から解放された。
(幸先悪いかもしれん…)
「更に散らかってるわね…」
稽古があるから先に行って話してて…部屋の鍵を渡され、リツコと加持はミサトのアパートに来た。確かに足の踏み場もない。
「勝手に片付ける訳にもいかないし」
しかし、三人座れる位のスペースは確保しなくてはならない。加持とリツコは机付近の物を壁際に寄せて、居場所を作ろうとした。
「もう少しちゃんと躾しなさいよ」
「犬じゃないだろ。俺が口出しする事じゃないし。大体、言って聞くようなヤツか?」
「…そうだけど」
リツコはブツブツ文句を言いながら、丁寧に物を寄せていく。
「全く仕方がないコね…あら?」
何冊か本がある。ミサトの部屋に教科書以外の本があるのは珍しい。何気無しに、リツコは手に取って見てみた。
「…ちょっと加持君」
「なんだよ?」
急にリツコの口調が尖り、加持は焦る。何か機嫌を損ねてしまったのか…彼女を怒らせると厄介な事態に発展する事は、経験上、分かっている。
「あなたからのバイブル?」
「だから、なんだよ…」
突き出された本を見て、加持は度肝を抜かれる。本を持つリツコの手はブルブル震えていた。
"新婚初夜の心得"
"彼と迎える初めての夜"
そんな感じのタイトル。他にもその類の表紙が並んでいる。
「…こういう躾はしっかりとしているようね」
「誤解だ、誤解。ものっ凄い、ごか…」
リツコは本を加持に押し付けると、鬼の形相で言い放つ。
「こんな事してる場合じゃないでしょうっ!?」
「してない。断じて…してないって」
「男が言い訳しないっ。みっともないわよ!」
一番分厚い本で頭を叩かれ、加持は耳鳴りがした。
(…葛城のバカ野郎)
ぼかしながら簡潔に説明した。リツコに自分が本をミサトに読ませたと勘違いされている。構わないと言えばそうだが、加持も自身の保全を考えた。
リツコの誤解を解かなくてはならない。そうしないと話が進まなそうだ。
「男女間の事に口出しするのも野暮なのは分かっているわよ」
リツコも多少は理解したようだ。先程よりは口調が柔らかい。
「ほんっと、何もしてないって…今はそれどころじゃないしな」
自分の早とちりだったと、リツコも納得したようだ。方向性はズレているが、分からなきゃ調べる。ミサトならやりかねない。本当におかしな思考だが。
「分かったわ。あなたが押し付けた訳ではないなら良いわ」
そう言うと、リツコは机の前に座る。
(…ったく、アイツは)
でも、自分の事を考えてしてくれた…そう考えみると嬉しくもある。
「何がおかしいのかしら?」
知らず知らずのうちに笑っていたらしい。リツコに睨まれて加持は真剣な表情を作った。
「で、何から話す?赤木としては」
時間がない。加持が切り出すと、リツコも話を切り替える。その方が得策だと思った。
「ミサトがいないうちに聞いておくわ。加持君、ユイさんから何か聞いたんじゃなくて?」
加持は何と言うべきか迷う。リツコにいずれ聞かれるとは考えていた。加持が素直にユイの申し出を受け入れた事から、リツコは怪しんでいた。
(ユイさんなら、赤木に話すのは承知の上だよな)
ある程度は話しても良いと思う。リツコなら。ミサトには言わないだろう。
「…色々省略するが、重点だけな」
ミサトの父親、加持の叔父、ユイは同じ任務に就いていた。そして、事故に巻き込まれてしまう。その時、ミサトも一緒にいた。父親だけ亡くなり、今の保護者に引き取られた…そんな風に説明する。
「…なんて言ったら良いのか」
リツコは話の内容に言葉が出ない。重たく辛い。話をしていて加持も苦しく思える。
「ミサトには内緒なのね」
「言えないな。今は」
「…そうよね。その方が良いわ」
たった三年しか経っていない。父親がこの世にいない事は察しているようだが、自分を庇って死亡したという事実は、かなり衝撃を受ける。
「だからさ、叔父もユイさんも葛城を大切にしてるんだよ」
「叔父さま…そ、そうよね。命の恩人の娘だもの」
叔父の話題が出ると、リツコは赤くなる。こういうところは可愛く思う。かなりズレているのはリツコも同様だが。
「恩返し…と言ってしまうと聞こえが良くないけれど、そんな感じなのね」
「ユイさんが肩入れしてる理由は分かっただろ?」
ユイが協力的な訳もリツコは納得した。
「この事は一先ず胸に閉まっておくわ」
やはりリツコは賢い。この話を引っ張ると何もできなくなる。過去を振り返るのも時には大事だが、今はその時ではない。
それに、今からやる事はこの話も含んでいる。ミサトの記憶に絡んでくる…どうしても。それが良いのか悪いのか加持には分からないが、やるしかない。
「それで、あんなに酷い傷を負ったのね」
「ああ。そうだと思う。あそこまで残っているのはかなり重症だったよな」
リツコが黙ったままなので、辛い話に気分が落ちている…加持はそう思い、喋るのを止めた。
「何故知っているのかしらねぇ?」
「へ?」
暫くすると、リツコの呆れたような、尖ったような声が聞こえてきて加持は呆然とする。怒らせるような事をした覚えはない。
「傷の場所を知っているのは何故?」
(…しまった)
誘導尋問に見事、引っ掛かったのを加持は悟る。先程の話にまた戻ってしまう。
「なんでかしらねー」
「たまたま、ちょっとした拍子で見えたダケ。それだけだって…」
「それにしてはやけに詳しいのねえ」
(…もう勘弁してくれ)
言い訳を考えていると、ドタバタと、けたたましい足音が遠くから聞こえてくる。加持は本気で助かったと思った。
「(内緒だぞ?あの話は)」
「(分かっているわよ。あなたこそ口を滑らせないでよ。意外に抜けているんだから)」
「(なんだよ?抜けてるって…)」
バタン、と大きな音と共に扉が開く。
「ごめんねー。お待たせ。話は進んでる?」
息を弾ませながら、ミサトが顔を出す。場の空気は全く読めていない。
「お疲れ様。待っていたわ。順調よ…ね、加持君」
ミサトは脱衣室に入っていく。着替えを終えて出てくると、布団の上に座った。
「自由時間って殆どないね」
加持は日程を改めて見てみる。アホ男に時間を取られ、しっかりと確認していなかった。リツコはそんな加持を睨みつける。
「まだ頭に入れていなかったの?しっかりしてもらわないと困るわね」
(ここは下手にでるか…)
バツが悪いし、リツコの挑発に乗ってはいけない。余計に話が進まなくなる。加持は聞き役に徹する事にした。
「新東京に泊まるって言っても、本当にそれだけって感じ」
確かにそうだ。第一、ロクに観光する場所もない。新東京に行く前に、昔の名所に幾つか寄る。新東京に泊まるのは二日間だ。一日は観光と書いてあるだけ。
「工場現場しかないし。あの建物以外は」
「次期首都になる場所を見学する…後学の為に。建前上はそんな感じね」
"建前上"――リツコの言う通りだ。あの男が絡んでいるのは間違いない。そうでなければ、新東京には行かないし、入れない。
「どっちが良いのかな?」
「一日目だと、到着が遅いわね。善は急げと言うけれど、二日目が無難だわ」
「そうだね」
布団の上に寝転びながら、ミサトは日程を見ていた。加持がこんな態度をしたらリツコは怒り狂いそうだ。
「決定ね。後の日程はどうでも良いわね。夜に抜け出すのは難しくはないし」
「リツコと同じ部屋だしね」
女子は二人しかいないから、当然だ。誰でも構わないが、アホ男は勘弁して欲しかった…加持はそう考え始めていた。
「さっきから黙ってるけど、どうかした?」
ミサトが加持の様子に気付き、声をかける。
「赤木に任せるよ。そうしとけば安心だ」
投げ槍な言い方だとミサトは思い、加持を見たが、加持は下を向いたままだった。リツコが満足そうに微笑んだのを加持は見逃さなかった。
「加持は抜け出すの難しいんじゃない?」
加持の様子が気になり、ミサトは話を振ってみる。
「問題ないだろ。適当な理由言っとくわ」
「加持君なら上手くできるわよね?うっかり口を滑らせるような真似はしないでしょうし」
(…赤木の野郎)
完全に楽しんでいる。加持が黙秘を決め込んでいるのを承知で突っかかってくる。
「車置きに行くのが一週間前だから…この日だね。ユイさんに言っとこ」
「早めに連絡しておくべきね。ミサトに頼むわ」
「オッケー。後は?」
ミサトは近付いているのが嬉しいようだ。やる事が決まれば、真っ直ぐに突き進む。目標があるなら動きたいタイプだ。
(…ヘンな方向に行く事も多々あるが)
本の事を突っ込むかどうか、加持は考えていた。自分もどんな事が書かれているのか興味なくはない。
「取り合えず今日はこんな所かしら。加持君は何か意見あるかしら?」
「良いんじゃない。俺は今んトコやる事なさそうだし」
素っ気なく加持が答えると、リツコはカチンときたようだ。
「あなたは今は何も"しないで "やって欲しい事があれば頼むわ。良い?余計な事は"しないで"ね。なーんにも"しないで"よ」
しつこく言われ、居心地が悪い。リツコと二人きりになったら、嫌味たらしく色々と話し続けるだろう。加持は先に帰るという選択をしようとした。
「私、帰るわね。もう少し練り上げておきたいから」
リツコはそう言って、さっさと帰り支度を始める。加持は助かったと安堵した。
「それじゃ、ミサト。運転気を付けるのよ。ユイさんにも宜しくね」
「うん。頑張るよ。ありがと」
「気を付けてな…物騒な世の中だ。男だけじゃない。コワイ女性も多いからな」
加持が言うと、リツコは嫌味に反応し、一瞬、表情が強張る。しかし、無言の言い合いも飽きたらしく、ミサトに気付かれないように小声で言った。
「(二人きりにしてあげるから。ちゃんと言っておきなさい。あのズレた娘に)」
命令口調だし、言い方は上からだが、リツコなりに気を遣っている…こういう所があるから憎めない。
(…赤木もかなりズレてると思うが)
「葛城。ちょっと座れ」
リツコが帰ると、また布団に向かうミサトを制し、加持は机を軽く叩いた。ここに来い…という合図。
「寝転んだ方がアタマに入るんだけど」
「アタマに入れなくて良い」
壁際に積み上げられている荷物の中から、加持は本を取り出して机の上に置いた。
「なんだ、これは?」
「…げっ」
ミサトは慌てて本に覆い被さるようにして隠した。見られたくない物を、その辺に散らかしておくべきではないが、独り暮らしだと忘れてしまう。しかし、急な集まりだって有りうる。今日のように。
「こんなモン読む必要はない」
「…まだ見てないし」
読書は苦手だ。先日、古本屋で購入したけれど、未読だった。
「これは俺が預かる」
「えっ…心の準備をしようと」
「無理矢理そんな事しなくて良いんだって」
ミサトの顔を下から覗き込むようにしながら、手を優しく重ねた。怒っているかと思っていたので、加持の態度に少し安心する。
「時が来りゃ、自然に恐さなんてなくなる。それからで良いからな」
そう言って、加持は名残惜しそうに手を離した。
「…滅茶苦茶、怒ってるじゃない」
「へ?」
ミサトの押し殺したような声に、加持は思わずヘンな声をあげてしまう。
「怒ってたじゃない、加持」
繰り返し言われても、良く分からない。声が震えている。泣くのを堪えているらしい。ミサトが泣くのを見た覚えがなかった加持は相当焦った。
「怒ってないって。全然。」
「あの時、凄い機嫌悪かったし。さっきだって…」
(…あの時って、どの時だ?)
思い出そうと試みる。暫く考えてみたが、加持には心当たりはない。
「次の日、怒ってたでしょ」
「…次の日?」
間抜けな事に、ミサトの言葉を反復してしまう。忘れているという事は、加持からすると大した事ではない。それを誤解されているらしい。
「電車の中で怒ってたじゃない」
「電車、か…」
言われてみると、不機嫌というか、不貞腐れてはいた気がする。それをミサトは、加持が考えていた以上に気にしている…そういう感じだ。
「すまない、怒っちゃいないって…ちょっといじけてたダケ。気にすんな、ホント悪かった」
ポロっと、一滴だけ涙がミサトの目から溢れ落ちる。
「泣くな…ホントに俺が悪かった。葛城はなんにも悪くない」
実際、どちらが悪いとかではないが、こんな風に女の子に泣かれた経験がない。プラトニックな恋愛に、加持は疎い…それを自覚していなかった。
「本当に?」
「ああ。何度も言ったが、いつまでも待つから」
「さっきから不機嫌だし」
「それはその…ちょっと赤木にイジメられたっていうか…」
次々に涙が溢れてくる。加持は益々、慌てた。ここ何日かミサトの態度はいつも通りだったから、分からずにいた。かなり我慢していたみたいだ。
「葛城」
両手を広げると、ミサトは迷わず胸の中に飛び込む。加持は背中を優しく撫でた。
(…分かってなかったな、俺)
自分が汚れていると思った事はない。他人から見たら、そう見えるかもしれない。その時その時、自分なりの考えで行動をしていた。相手を傷付けなければ良い…それだけは念頭に置いていた。
もしかすると、傷付けていたのかもしれないが、今の状況とは違う。
「葛城、好きだよ。どうしようもない程にな」
返事がない。感激して声が出ないのか…そんな甘い感傷に浸っていた。背中に回していた手を頭に移し、乱れた髪の毛を指でとかしていく。艶やかで綺麗な黒髪。加持はそこに頬を寄せた。
「葛城。あのさ…」
好きだと言われた事はない。嫌われてはいないのは分かるが、ミサトの口から聞きたかった。今なら言ってくれそうだ。
「俺の事、どう思ってる?」
やはり返事がない。いくらなんでも長い。そう思って肩を揺さぶってみると、ミサトは熟睡していた。
(…疲れているんだな)
布団に寝かせて、その辺にある紙に走り書きをすると、加持はそっと扉を閉め、鍵をかけて駅へ向かった。
(なんだこりゃ)
持ってきた本を捲ってみると、遥かに予想を超えていた。興味半分で開いてみたが、かなり過激な内容だ。下手な大人向けの雑誌よりキワドイ。
(…読む前で良かった)
こんなモンを見たら、嫌悪感を抱く可能性が高い。知らない方が良い事もある。この手の知識は実践で身に付けていくモンだ…少なくとも加持はそう思う。
その日は遠い…そんな予感がする。何よりリツコが恐ろしい。
(切り替えるか。俺も)
目前まで迫っている、新東京への潜入。果たして、リツコはどうやって忍び込む手段を考えているのか…楽しみではある。
ミサトは関係者だ。それを利用するだろう。
叔父とユイとミサトの父親の関係。そしてミサトとあの男の関係。加持を知っていた、校長代理と名乗る男。リツコの母親。
繋がりは徐々に見えてきた。後は行動に移すのみ。
(…やるコトはやっときますか。後悔のないようにな)