夜のカナリア
□はじまりは事故
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私は、私が分からない。
いつからこうなってしまったかなんて、覚えてない。
毎日浴びせられる母親からの怒号も、呆れたような父親の声も、もう慣れてしまった。
ふざけるな。いつまで休むつもりだ。もっと辛い思いをしてる人なんてたくさんいるのに。頭がおかしいのか。精神科に行け。役立たず。
それらを聞いても何も感じなくなった頃には、私の喉は声を発していなかった。
ある日。
母親に引きずられるように連れていかれた病院で、私は聞き慣れない単語を聞いた。
「起立性調節障害ですね」
「起立性…?なんですか、それは」
カルテを書き込みながら、医者はその問いに答えた。
「若い女の子に多い病気ですよ。
血圧の調節が上手くできないので、めまいや吐き気などの症状が出るんです。主な原因はストレスでして――」
自分は病気だったのか。
医者からは様子を見ることと薬を飲むことを言い渡された。
原因が分かってよかったなんて言っている母親は、これで周りの人から怠け病だというマイナス評価を受けないで済むなんて考えているのだろう。
結局私は、この人の物でしかないのだと思いしらされた。
「(…こんなこと、考えるものじゃない)」
その日は珍しく嘔吐することなくすんなりと眠れた。
ーーーーー
いつものように重い体を引きずって学校に向かう。頭が痛い。気持ち悪い。視界がめちゃくちゃで何も見えない。ふらふらする。自分がわからない。
あまりにも覚束無い歩き方をしていたせいか、私は後ろから走ってきた車に跳ねられてしまった。
体のどこかからボキリと音がした。
ああ、骨が折れたんだな、と頭が理解した。
そのまま硬いコンクリートに叩きつけられると思ったが。ものすごい勢いで私は落ちていた。そう、落ちていた。空の上を。
「(あれ、もう死んじゃったのかな)」
にしても、死んだら空に昇っていくんじゃないのか。まあ、役立たずだった私なんて地獄に落とされて終わりなのだろう。当然だ。
「(…死ねて、よかった)」
急に眩しくなり、光の方を見る。
ここはどうやら今になって夜が明けたようで、朝日がきらきらと輝いていた。
ごうごうと耳元で鳴る風も、きん、と澄みきった空気も、全てが美しい。
気がついたら、隈だらけの充血しきった目から涙が溢れていた。
私、ドライアイだったんだなぁ、と思ったと同時に体に強い衝撃が走った。
まるで電気ショックのようなそれを体は受け止めきれなかったようで、あっけなく気を失った。
「(あれ、死んでも失神するんだ…)」
どうか、辿り着いたここでは誰かの役に立てたらいいなあ。
最後に聞こえたのは、ごぼごぼと水の大きな音だった。
私は、一度でいいから誰かに「頑張ったね」と言ってほしかった。
ここまで生きてきたことを、耐え忍んで来たことを褒めてほしかった。
自分がここまで生きていた証がほしかった。
卒業証書や戸籍ではなくて、人の価値観から与えられる自分の存在がほしかったのだ。
けれど、そんなことは願っても無駄なだけだった。でも、頭のどこかでまだ期待しているのだ。