砂糖菓子の恋

□7 ラビット・ホール
1ページ/2ページ

その日、隼人はレースだと言っていた。必ず勝つと。



夕方になり、ふと、花の家の庭先に顔を出した隼人は、自転車を押して歩きながら俯いていた。

「隼人くん、いらっしゃい。今日はウチでごはん食べてく?」

庭で花壇の手入れをしていた花は、隼人の姿を見つけると駆け寄った。

声を掛けられても、隼人は俯いたまま、返答を返さなかった。
自分に会いに来たはずなのに、反応を示さない隼人によほどレースで疲れたのだと理解した花は、早くウチの中に入って休むように促す。


ふと、自転車のハンドルに置かれた手を見た花は、隼人の手が泥だらけなのに気付いた。しかも震えている!?
良く見ると、着ている服の胸から腹のあたりも、その両手も泥だらけで、所々赤黒く汚れていた。

「隼人くんどうしたの?途中で転んだの?血が付いてる」

花は心配そうに隼人の顔を覗きこんだ。すると隼人は背負っていたリュックを肩から外し、花の目の前につき出した。


リュックを受け取って両腕に抱えてみると、中で何かが動いている。不思議に思った花は、ゆっくりとリュックのファスナーを開けてみた。
するとそこから、小ウサギが顔を覗かせた。

「この子どうしたの?」
「オレ、殺しちまったんだ…」
「隼人くん!」



『殺したって言ったの?』今まで感じたことのない恐ろしさを感じ、心臓が早鐘を打った。
隼人は、全身を震わせて、目にいっぱい涙を溜めている。

「こ、この子リュックから出してあげないと可哀想だし、私の部屋に行こう?」

花は隼人の手首を掴み、自分の部屋に引っ張って行った。






隼人を自分の部屋へ連れてきた花は、彼を椅子に座らせた。

「ウサちゃん、リュックから出してあげないと可哀想よね?」
ピクニック用の籐製の大きなバスケットにスカーフを敷いてから、リュックのチャックを開ける。
仔ウサギを取り出すのに、おっかなびっくりしていると、横から隼人の手が伸びてきて、仔ウサギをバスケットに移してくれた。

「ちょっと待ってて、ウサちゃんの食べるもの持ってくる」

花は、バスケットの前にうずくまる隼人に声を掛け、キッチンへ向かった。
ウサギの食べるものなど良くは知らないが、菜っ葉なら食べるだろうと、冷蔵庫からレタスを取りだし皿にもり、隼人が食べそうなお菓子や飲み物、おしぼりと共にお盆に乗せ、部屋に戻った。



「隼人くん、食べる物と飲み物持ってきたよ」

お盆をテーブルに置き、仔ウサギ用のレタスと水をバスケットの中に入れると、仔ウサギはすぐレタスを食べ始める。
隼人はその前で、じっと仔ウサギを見つめていた。見たこともない暗い瞳で。

花はなんと声を掛けて良いのか、言葉が見つからず、無言のまま、持ってきたお手拭きで、泥だらけの隼人の顔と両手を拭った。


……と、花は隼人に手首を捕まれる。


「は、隼人くん!」

花が驚いて顔を上げるのと、抱きつかたのは同時だった。




「ウッ、ウッッ」

隼人が声をあげて泣いている。
花は隼人の暖かい、大きな身体に抱きしめられながら、全身で隼人の悲しみを受け止める。
花が隼人に回した手に力を籠めると、泣き声はさらに大きくなった。


『小さい時はこんな風に、よく、抱き合って泣いていたな』

懐かしさと共に思い出す。

少し成長してからは、さすがに声をあげて泣くことはほとんどなくなったが、悲しいとき、とても嬉しかったとき、隼人と花は、いつも気持ちを共有してきた。
今でも、自分に悲しくて耐えられない事態が起きたら、自分も真っ先に隼人の元に行ってしまうだろうと思う。

だから、今、隼人に何が起きたのかは、聞かないと分からないが、大変なことが起こったのだということは、分かっていた。




しばらくして、隼人は少し落ち着いたのか、花を抱きしめたまま事の顛末を、ポツポツと話し始めた。


レース中、先行する選手を抜こうとスパートを掛けた時に、横から飛び出してきたウサギにブツかり、落車してしまったと。(注: 落車=自転車から落ちること)
落車後、すぐにレースを続けて、レースには優勝したこと。

レースの帰り道、落車した地点を通りかかると、ウサギは死んでいて、傍らにこの仔ウサギがいたこと。
こんなに小さな仔ウサギじゃ、独りぼっちで山で生きてはいけないだろうから、リュックに入れて連れてきたこと。

死んでしまった母ウサギは、土を掘って埋めてきたんだと。


「こいつの母ウサギは、オレがひき殺しちまったんだ。」

「殺しちまった」と何度も口にし、身体の震えが止まらない隼人に、花はただ抱きしめることしかできなかった。



『可哀想に……』

花は死んでしまった母ウサギと、目の前の仔ウサギ、そして隼人を思い、瞳を潤ませた。
一体、自分に何が出来るだろう?


二人はずっと抱き合ったまま泣き続け、いつの間にか、二人とも眠りに落ちていた。


花が目を覚ましたとき、すでに日は暮れ、窓の外は暗かった。
隼人は花の肩に手を掛けたまま、まだ寝ている。

疲れた隼人を起こさないよう、そうっとそばを離れる。
横のバスケットを見ると仔ウサギも眠っていた。

『隼人くんの自転車、そとに起きっぱなしにしてきちゃった』

隼人がいつも自分のロードバイクを、宝物として大事にしているのをよく見ている。それがどれほどの値打ちのものか、花には分かっていなかったが、隼人の言う「安い自動車一台分」以上の価値が、隼人にとってあるのは分かっていた。

隼人の自転車は、玄関の外に立て掛けたままだった。

「あなたも大変だったわね。隼人くんをウチまで連れてきてくれてありがとう」

花は自転車のサドルを撫でた。



* * * * *



隼人は元来明るく、飄々とした穏やかな優しい気質をしている。
かと思えば、負けず嫌いで、これと決めたことはどんな努力も厭わず達成する頑固なところもあるのだが、その強気な部分は普段、柔和な立ち居振舞いにより表に出ることは稀である。

幼い頃から共に過ごしてきた花は、隼人の優しい性格を良く分かっているがゆえに、今回の事故で隼人が被った心の傷が心配だった。



あの後、隼人の態度は表面上変わりがないよう振る舞っていたが、落ち着かないのかパワーバーなどを絶えず口にするようになった。
一見、前と変わらぬように見えるが、ふとした瞬間に神経質そうな仕草が垣間見られる。


仔ウサギは隼人によりウサ吉と名付けられ、隼人と花の二人で育てることを約束した。
平日は学校のウサギ小屋に入れてもらい、授業の合間や放課後に面倒をみる。
休日で隼人が忙しい時などは、花がウサ吉を家に連れ帰った。

* * * * *

「ほぅらウサ吉、ゴハンだぞー。イッパイ食べろよー。お?花も来たか。ウサ吉、ママが来たぞ!お前も嬉しいか」

花の手を引いて、隼人は自分の隣に花をしゃがませる。

「ウサ吉、ちょっと大きくなったね!」
「そうだな……おめさんのお陰だ。ありがとな」
「ウサ吉のママは私で、パパは隼人くんなんでしよ!だったら、当たり前のことじゃない。今更ありがとうなんて、言うのは可笑しいよ」
「おめさんの手、温かいな」

隼人は片手でウサギを撫でながら、花の手を握っていた。

「オレの精神安定剤だな」

近頃、隼人は花に触れてくることが多くなった。近くにいれば必ず手を繋ごうとしてくるし、花の体温を感じたいのだと隼人は言う。



あの事故の後、隼人は一時、ロードレースを諦めそうになった。
しかし、チームメイトの支えにより、今はまた、高校ロードレース界の頂点、インターハイを目指して日々練習を積んでいる。

その裏で、隼人は精神的に花を頼り、心の拠り所となっていた。

二人の関係はといえば、相変わらず幼なじみの域を出なかったが、端から見るとその立ち位置は恋人同士に見えていたことだろう。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ