砂糖菓子の恋
□1 スリーピング・ビューティー
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その日は前日までの雨が嘘のように晴れ、3月でまだ肌寒いが、快晴といえる天気だった。
新学期を数日後に控え、この1週間は部活動は休止だったが、尽八は久々の良い天気に愛車のリドレーで山を登っていた。
冬のこの期間、自転車で走るというのは、少々辛いものである。走って体が温まっても、指の先、足の先は冷えて痛いほどになる。
寒がりの尽八は、真冬用のグローブにシューズカバー、耳当てまでして寒さ対策を万全にしている。
そろそろ峠の頂上に着くので、背中のポケットからウインドブレーカーを出して、自転車を漕ぎながらそれに袖を通し、ジッパーを上まで上げたていく。
自転車のサドルの上で服を脱ぎ着しても、尽八の走りは一切乱れるということがない。
『スリーピング・ビューティー』の異名をとるだけのことはある。
峠を登りきると、次は下りのご褒美タイムだ。
尽八は自転車レースで登りを得意とする『クライマー』だが、『クライマー』とて皆が皆、ヒルクライム(自転車での登坂)の辛さにのみ魅了された奴という訳ではない。
尽八は山を登り切った時の達成感、そしてその後の下りの爽快感もこよなく愛していた。
下りに入り、下ハンを持って急坂を下る。ギアをトップに入れ、さらにペダルを回して加速していく。
練習でいつも通りなれた道。
カーブに差し掛かるが、ブレーキを掛けずに車限界まで車体を傾けていく。
『…マズイッ』
尽八がとっさにブレーキを掛けた瞬間、凍結した路面に車輪を取られ、愛車ごと崖下に投げ出された。
* * * * *
あと数日で始まる新学期から通う箱根学園で、転入手続を済ませた花は、帰りの車から見える駿河湾に瞳を輝かせた。
「どこか止められそうなところがあったら、止めて下さい。景色が見たいから」
花が運転手の小林にそう告げると、まもなく車は展望の良い駐車場に止まった。
「ありがとう。ここで30分くらい休憩してもいいかしら」
「はい、お嬢様」
「よかったら、そこのレストハウスでお茶でもしてきてね。出発したくなったら電話します」
花はそう言って、コートを羽織り歩き出した。
人の良い運転手は花が東屋の日蔭のベンチに腰掛けたのを見送ってから、レストハウスに足を向けた。
「すごい絶景。これから毎日この景色を見られるのね」
この辺りからは、駿河湾、芦ノ湖、富士山などが一望できる。
ふと、道の反対側に目をやった花は、少し離れた斜面に自転車が引っ掛かっているのに気付いた。
こんなところに自転車が落ちているなんて、しかもよく見ると、ママチャリではなく、隼人が乗っているようなロードバイクのようだ。
「え!!」
自転車の少し下に人がいる!
救護を必要としている人がいることに気付いた花は、とっさにそこへ駆け出していた。
100メートル程走っただろうか、道路から30メートル程下の斜面に人が横たわっているのを確認した。
夢中で道路脇の柵を越え、そこへ駆けつける。途中、斜面で少し滑ってしまったが、なんとかたどり着くことができた。
「大丈夫ですか?」
声を掛けるが、返答がなかった。
夢中でここまで来たは良いが、このあとどうしたらいいか分からない。
大変なことになった、と身体が震えてくる。
「大丈夫ですか?大丈夫…?」
負傷者を少し揺すると、「うっ」と声が漏れた。死んではいないようだ。
負傷者をよく見ると、若い人で、自分と同じくらいの年齢に見える、そして、着ている服には『箱根学園』と書かれていた。
花はとっさに隼人を思い出し、携帯を取り出し、泣きながら、隼人に電話を掛けた。
「もしもし、花か?どうした?」
寮の部屋で休んでいた隼人は呑気な声をあげた。
「あのね、今、家に帰る途中なんだけど……人が倒れていてね、自転車で転んだみたいなの。箱根学園って書いてあるの着ているの!どうしたらいい?」
「花、今どこにいる?」
「峠のレストハウスの少し………先」
誰か分らないが、ハコガクの自転車競技部の奴が落車したようだ、花が見つけたってことは、状況は深刻かもしれない。
「いいか、花、良く聞いてくれ。まず、この電話を切って、それから119番に電話をするんだ。そして事故で人が倒れていることと、今いる場所を連絡する!しばらくしたら救急車が来るから、負傷者を回収してくれる」
「うん」
「運転手の小林さんと一緒じゃないのか?」
「小林さんには今レストハウスで休んでもらっていて………」
「分かった、小林さんにはオレから連絡しておく。オレもすぐそこに行くから、花はそこで待っていてくれ」
「うん」
花に指示をして、隼人は部屋を飛び出した。監督か先生に話して、車を出してもらわないといけない。
落車した奴のことも気になるし、パニクっていた花のところへすぐに行ってやりたい。
隼人は職員室を目指して全速力で走った。
* * * * *
花は、隼人に言われたとおり、すぐに119番に電話をする。ボタンを押す手が震えた。
「はい、こちら119番です。火事ですか?救急ですか?………どうしましたか?」
「えっと、事故で人が倒れています!場所は、○○峠のレストハウスから、200メートルくらい下った先の道路の右側です」
「負傷者の状態は分かりますか?」
「生きています!でも起きてくれません!高校生だと思います。自転車で転んだみたい」
「分かりました。すぐに救急車を向かわせます。救急車が近くに来たら、救急車に場所を知らせてください」
隼人は救急車はすぐ来てくれると言ったが、待っている時間は、花にはとても長く思えた。
待っている間に、なんとか少しでも手当をしてあげたいと思い、花は負傷者をよく観察してみた。
自転車競技用のウェアを着て、下も自転車競技用の…たしかレーパンとかいう半ズボンをはいている。
細くて綺麗な足、すね毛が生えていないから女の子かもしれない。
かぶっているヘルメットを外してあげようと、あごに手をやる。横顔がとても整っていて、綺麗な人だ。
そうこうしているうちに、救急車のサイレンが聞こえたので、崖を登り、合図を送った。
「あなたが連絡をくれた方ですか?」
「はい。けが人はあそこに倒れています」
救急隊員はテキパキと負傷者を収容し、救急車へ載せた。
「あなた、付き添いますよね。一緒に乗ってください」
救急隊員にそう言われた花は、負傷者が心配で、隼人にその場にいるように言われたことも忘れ、救急車に乗ってしまった。
仰向けに寝かされたその人は、顔と足だけ見て女の子かもと思っていたが、こうして見るととても細見だが、しっかり筋肉の付いた男子だった。
「どうして起きないんでしょう?」
花は救急隊員に質問してみた。
「手足に大きな怪我はないようだが、もしかしたら頭を打っているかもしれない。それと倒れていた状況から、肋骨か鎖骨を骨折している可能性もある。お嬢さん、心配でしょうが、病院で検査すれば分かりますから」
花は横たわった男の顔をじっと眺めた。
『なんて綺麗な顔。長いまつげ、カチューシャなんて付けているけど、本当に女の子みたい』
早く目覚めればいいのにと、そっと頬に手を当ててみた。
『眠り姫だったら、王子様のキスで目覚めるのよね』
そんなことを考えた。
* * * * *
病院に着くと、その『眠り姫』は処置室に運ばれていったが、花はそこで失敗したことに気が付いた。
「負傷者の氏名は?怪我をした状況は?連絡先は?あなたとの関係は?」
矢継ぎ早に病院の関係者から質問されても、ほとんど答えることができない。
箱根学園の生徒であること、分かる人間がこちらに向かっていることだけ答え、隼人に電話を掛けた。
「プルルルル…、プッ、隼人くん、花です。今どこ?」
「今どこ?じゃねえよ。おめさんどこに行っちまったんだ?ケータイ通じねえし」
「ごめん、救急車の中は携帯の電源切るよういわれたから。○○病院まで一緒に来ちゃってて…」
隼人は監督と事故現場で自転車を回収し、救急車が向かっただろう病院へ車を走らせていた。
「やっぱ○○病院か。すぐ着くから、今度こそ、そこでじっと待ってろよ!」
隼人達はそれからほんの5分程で病院に到着し、花はやっとホッとすることができた。
「花!」
車から降りると隼人は花に駆け寄り抱きしめた。
「隼人くん…、怖かった。あの人大丈夫かな?」
「ああ、あいつは山神だから、きっと大丈夫だ」
怪我人が誰なのか、隼人には既に分かっているようだった。
監督はドクターから怪我の状態を聞き、隼人と花にも教えてくれた。
肋骨と鎖骨を少々骨折しているが、その他は問題ない。すぐ目を覚ますだろう。間もなく家族が来るので、付き添いも不要だからもう帰って大丈夫だと。
帰る前に病室によると、『眠り姫』はまだ眠ったままで、花は少し残念に思った。
「尽八、早く良くなれよ」
隼人は誰にも聞こえないほどの声でそうつぶやくと、花の手を取って、病室を後にした。
* * * * *
尽八は長い夢を見ていた。
横たわっている尽八は、可愛らしい少女にじっと見つめられている。その子が可愛いことは分かっているのだが、何故か顔は見えなかった。
この少女は尽八の手を取り、励ましてくれているようだ。少女の小さい手が尽八の頬に添えられ、キスされる!
………そう思った瞬間、ムギュっと頬をつねられ飛び起きた。
「尽八ィ!心配かけおって…」
「姉ちゃん!つねるのは止めてくれないか!イッテテテ………」
起き上がったとたん、身体に激痛が走る。
『はて?ここはどこだろう?母さん?!父さんまでいる?!』
完全に目が覚めると、自分の置かれた状況が見えてくる。
『峠で落車して………、ハッ?』
「オレのリドレーは?」
「こんのバカ弟!自転車は監督が回収してくれたよ!自転車は問題なかったって。自分の身体より自転車が大事か?」
「オレの怪我は?」
「鎖骨骨折、肋骨2本にヒビ、全治1ヶ月!」
「良かったー。来月の大会には問題なく出られるな」
「尽八!あんたが意識不明で病院へ運ばれたって聞いて、お父さんとお母さんがどれだけ心配したと思っているの!ちゃんと謝りなさい!」
尽八の姉は年はあまり離れていないのに、まるで母親のように、いつもガミガミ細かいことを言ってくる。
だが、今回は家族にとても心配を掛けてしまったようだ。
「お父さん、お母さん、姉ちゃん、心配かけて申し訳ありませんでした。反省しています」
肋骨が痛むが、できる限り頭を下げた。
父さんも母さんもオレには甘いのだ。
二人とも日々、旅館の仕事が忙しかったせいか、礼儀作法についてはしっかり躾けられたが、子どもの頃からほとんど怒られた記憶がない。
母さんは少し涙ぐんでいたが、二人とも今回も叱るようなことはしなかった。
それにしても、さっきの夢………。
「尽八、入院はしなくていいそうだから、ほら帰るよ。それと、あんた、女の子に助けられたんだって?ちゃんとお礼しなさいよ」
「え?それはどういうことなのだ?」
姉は家への帰り道、これこれしかじかでと、尽八が救出された顛末を話してくれた。
尽八が倒れているのを見つけた、高校生くらいの女の子が通報してくれて、病院まで付き添ってくれたこと。
自転車は監督が回収してくれて、今は学校にあること。
姉たちが病院についた時には、通報者の女の子は帰ったあとで、直接お礼が言えなかったが、どうやら、箱根学園の関係者らしいこと。
『ということは、箱根学園に通う生徒の可能性が高い。だとすると、当然、オレのことは知っているハズであるし、もしかしたらオレのファンかもしれない。
オレのファンに、好みの可愛らしい女の子、いただろうか?会いたい。会って礼が言いたい』
尽八の中で顔も分からない少女への恋心が生まれ始めていた。
つづき→《 2 新学期 》