短編集

□三猿
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<名無しさんの想>

新撰組が屯所として利用している壬生の八木邸などのまわりは一面田んぼに覆われている。夏などは田んぼを抜ける風が涼を与えてくれるが、村の住人達からは離れているため、どことなく隔離されたような気になることもあるが、壬生狼と呼ばれた新撰組を抱えるには、このような場所が頃合なのだろう。


そこにこんなものがある、と名無しさんが気づいたのは、最近である。見渡す限りの田んぼではあるが、ある場所には小さな森のような場所がある。森と言っても、木がこんもりと茂っている、という意味であって、10畳ほどもない場所である。そこに小さな祠があり、壬生住人士たちが大事に祭っている。ある日名無しさんは前川邸の子供達とその場所へ遊びに行ったのだが、子供達が虫などを集めている間、ふと祠の裏へ回ってみたときに、気づいたのだ。

(ここに、こんなものが・・・?)


それは、緑のコケに一部覆われた三猿であった。かわいらしい顔つきで、目、耳、口を手で覆っている。だが良く見ると、鼻や指先など、細かい部分は風や雨によって浸食されたものか、すでに無くなっている。それに、正直あまり上手な出来栄えではない。大きく見開いた目はいずれも虚ろだし、目を隠した猿の口はぽかんと「お」の形に開いていて、石工を目指す人間が、ためしに作って、失敗しました、といった感じだ。それゆえこんな場所にまるで捨てるかのように地面に放り出されているのか。

そのときは、名無しさんは大して深く考えたわけではなかった。だが、その後、名無しさんは黒い気持ちを抱えてここを訪れることになる。

昨日の昼過ぎ、名無しさんが屯所から診察に出ようと門を出たとき、目に飛び込んできたのは、美しく着飾った女と、そばに立つ長倉の姿であった。名無しさんの元で医術を学ぶためつきっきりでそばに控えている隊士が、あれは金吉という永倉がひいきにしている芸者だと教えてくれた。最近永倉は島原へは足が遠のいているため、恐らく金吉自ら誘いに来たのだろう、とまで教えてくれた。


女は美しかった。いつも金がない、と原田や藤堂にたかろうとする永倉だが、腐っても新撰組の幹部である。給金は不自由ないほどもらっているのだから、安女郎などを相手にするわけもない。その新撰組幹部がひいきにする芸者なのだから、美しいに決まっている。金吉は明らかに媚を含んでしなを作り、自分の白い指を永倉の指に絡めた。

名無しさんは永倉先生も隅に置けない、などと笑う隊士を促すと、永倉たちとは反対方向へ歩いていった。

歩きながら、名無しさんは自分の姿を見下ろした。地味な藍染の着物である。髪はなんとか髷が結える程度の長さになったので結っているが、簪などはひとつもさしていない。白粉や紅も、この時代のものはいまひとつ使い勝手がわからず、八木のおまさに教えてもらってはいたが、結局はほとんど化粧はしていない状態である。それにくらべて、金吉は金のかかった着物を着ていた。永倉に買ってもらったのだろうか。さした簪も、遠目からも手の込んだ豪華なつくりだとわかった。金吉の横に並んだとき、自分はどのように見えるのだろう?名無しさんは先ほど見た光景を、自分が惨めになるとわかっていながら、何度も何度も頭の中で繰り返した。



そして、今朝早く、ここにやってきた。猿達が話せるなら、きっと自分を笑うだろう。美しい芸者に嫉妬する自分。永倉が他の隊士たちと島原へ行き、場合によっては朝方帰ってくることは以前から知っていた。それはまだ我慢できた。もちろん永倉とて男だから、島原で何もしてこない、などと思っているわけではない。はっきりと目にするわけではないから、まだ何も気にせず、感じない振りをすることは出来た。だが、ああして自分の目で見てしまうと、だめである。いつものように太陽のような笑みを女に向けていた永倉。昨日の夜は島原へ行って、帰ってこなかった。夜、寝床にはいってから、名無しさんは永倉と金吉が何をしているのかを考えて、ただ寝返りを打ち続けた。

猿達は、名無しさんを見つめている。目を隠した猿は、まるで「今のお前は見ていられない」と言っている様だ。永倉は自分の男ではない。そもそも、自分が永倉を好きだということすら、毛ほどもあらわしてはいないのに、自分で勝手にやきもちを焼いている。名無しさんは情けなくなり、目じりににじんだ涙を指で跳ね飛ばすように拭いた。三猿は、ただ名無しさんの前に座っている。


見ざる、聞かざる、言わざる。


永倉の姿を見るな。永倉の声を聞くな。永倉に己の想いを言うな。


何故この時代にやってきたのか、いつかもと来た時代に返るのか。永倉への想いは、けして伝えられるものではない。



陽は昇ったが、小さな森の中にいる名無しさんには光はあたらず、薄暗い場所でただ名無しさんは三猿を見つめ続けていた。
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