Novel

□01 指だけ、そっと
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目が覚めたとき、視界は朱に染まっていてひどく眩しかった。

まだぼうっとした頭でしばらく宙を見つめ、やがて此処が学校の教室で、此時(いま)が放課後であることを思い出す。
この前のテストで赤点をとってしまった数学の補修中に、与えられたプリントの問題が難解すぎて眠ってしまっていたようだった。
教室の時計を見上げるとあと10分で教師がやってくる時間だと気づき、あわてて問題を解き進めていく。

夢を、見た。
もう数えきれないほどに、繰り返し同じ夢ばかり。
それはただの夢ではなく−あの日の記憶。


『また補修かよ』
この星のもうどこにもいない、あの人の声が聞こえた気がして、ふと顔を上げた。

『なによ、あんただって補修じゃない』
『俺はお前と違って、仕事が忙しくて授業に出られなかったからだっつーの。
 数学8点ってお前…なんかかわいそうになってくるな』
『う、うるさいわね!返してよ!』
『ハイハイ、返してやるからそんなに怒るなって。俺が教えてやってもいいけど?』
『えー、あんたにわかるの?』
『お前、本当に失礼なヤツだな…。
 俺のこと、誰だと思ってんだ。天下のスーパーアイドル、星野光さまだぜ?』
『…自分で言う?あんたって、それがなければ…』
『お、今、かっこいいって言ったな?やっとおだんごも俺に惚れたか』
『い、言ってないし!惚れるわけないし!聞き間違いじゃないの、自意識過剰!』
『ハイハイ。そういうことにしといてやるよ』
『言ってないって言ってるでしょー!』

いつものことだった、他愛のない口げんか。
それは記憶の奥底に沈めようとしても、胸を疼かせる痛みを伴って鮮やかに蘇ってくる。
蘇るたびに鮮やかさは増して、あたしの心にじわり、じわりと染み込んで、消えない痕を残していくのだ。
胸の痛みを堪えるように、瞳を閉じて制服のリボンに飾ったブローチをぎゅっと握った。

「月野、プリント終わったかー?」
数学の教師がどかどかと音を立てて教室に入ってきて、あたしの机の上に置かれたプリントを手に取る。
もう癖になってしまった笑顔を作って、あたしだってやれば出来るんです、なんて言った気がするけれど、よく覚えていない。

鞄の中に荷物を詰めて、教室を出た。
美奈子ちゃんはバレーボール部の地区大会が近いと言って、授業が終わるやいなや駆け出して行った。
亜美ちゃんは、科学部の研究発表会に向けた実験が大詰めなのだと言っていたから、今日も遅くまでデータとにらめっこするつもりらしい。
まこちゃんは、彼女がいないと何故か悲惨なものしか出来ないんだと嘆く料理部の部長に引きずられていってしまった。きっとそのあと園芸部に顔を出し、最近やっと手に入れたのだと喜んでいた珍しい花の苗の世話をするのだろう。

今日はひとりで帰ろう。
そう思って廊下を歩いていたのに、あたしの足は下駄箱ではなく屋上へと向かっていた。
引き寄せられるように、屋上へ向かう階段を一歩、一歩と踏みしめて登っていく。

夢に見ても、まだ足りない。
赤く染められた、あの日の記憶に、もっと触れたかった。


屋上へと続く扉をゆっくりと開け、その先に見えたものに思わず息を飲んだ。

夕陽が、赤く、大きく、今にも泣いてしまいそうなくらいに滲んでいて。
夢の中で幾度も見た、
最後に言葉を交わした、あの日と同じ―。

途端、夕陽がさらに滲んで、歪んで、泣いた。

不思議に思って瞬き、頬を伝う雫に気づく。

ああ、泣いているのはあたしだ。


真っ赤な夕陽は、あの日の―あの人の記憶を否応なく呼び起こす。
そのたびに、あたしの心はいつも嵐のように強く、息も出来ないほどに激しく揺さぶられるのだ。


仲間たちと、ずっと探していた大切な人とともに故郷へ帰っていった人。

気づけば、いつも隣にいた。

会うたび、言葉を交わすたびにからかうような口調で。
そのあと必ず、「悪かったって」そう笑いながら言って、あたしの髪にあやすように触れる手。

見上げた横顔も、見つめた後ろ姿も、それに気づいて得意げに微笑った表情も、いつもうるさいくらいにあたしの胸を高鳴らせた。
見透かされているようで恥ずかしくて、目を逸らして可愛げのない台詞を口にすれば、また乱暴に、でも優しく触れてくれた。

その腕で包み込み、その背中で盾となり、あたしをいつも守ってくれた。

流した涙を優しく拭ってくれたのは、いつだってあなただった―。

一緒にいると心地よくて、背伸びなどせずに何も飾らない“あたし”のままでいられた。
大切な人と遠く離れて不安に押しつぶされそうだった毎日は、いつの間にか心の中にじんわりと染み込んでいた、あたたかな気持ちで満たされていた。

本当は、もうずっと前から気づいていたの。
この気持ちの名前も、あなたの想いも。

『ずっと忘れないから』

最後にくれた、きっと想いのすべてを込めてくれた言葉。
あの時、もしその手を掴んでいたら、あたしは―。
時折、そんな考えが頭をよぎる。
でも。
ずっと友達だよ。
そう言って、あなたの想いに気づかないふりをすることを選んだのは、あたし。

あなたを傷つけることが分かっていて、みんなが信じている未来を変える勇気を持てなかった、弱いあたし。

『…おまえなぁ!』
しょうがねぇなぁ、って、あきれたような表情をして。
『じゃあな!』
片手を挙げて、燃えるように真っ赤な夕陽の中へと溶けていく後ろ姿。

あたしは、瞬きもせずにそれを見つめていた。
その後ろ姿を忘れないように、この目に焼き付けるために。
この想いが誰にも伝わらないように、それでも眼差しにありったけの想いを込めて。


気づけば、夕陽は地平線の向こうに沈んでしまっていて、星々がひとつ、ふたつと空に輝きはじめていた。

あの星々の中のどこかに、彼はいるのだろうか。
元気で過ごしているのだろうか。
自分のことを、時々は思い出してくれているだろうか−。

制服のリボンに飾ったブローチにそっと触れる。
その中に隠した、銀色に輝く三日月のピアス。
この輝きだけが、あなたが此処に存在した唯一の証。

「−せぇや…」

瞳を閉じて、愛しい人の名前を呼ぶ。

今だけ、この瞬間だけ。
あなたを想うことは赦されるだろうか。

触れる指先だけが、あのとき心の奥底にしまった、あたしの想いを知っている。
 
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