砂時計
□自分の選択
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昨夜の忍び足とは反対に、アカネは転がる鞠のように跳ねながら歩いていた。しかし、そんなアカネを気にとめる者は誰もいない。
なぜなら、今の彼女は誰にも見えないからだ。
校長室を出る直前、アカネはダンブルドアに姿を消す魔法をかけてもらった。教職員や絵画に姿を見られたらまずいから、と。
そんなわけでアカネは今誰の目も気にする必要はない。そんな経験はこれまでの人生で初めてだった。常に誰かに見られているのを意識して動いていた。自分の部屋から一度出れば、そこはアカネにとって文字通り戦場だった。
だが、今は自由だ。明日からの毎日はきっと魔法界で生きるため、自分はきっとまた周りに見捨てられないよう顔色を伺って生きるのだろう。だが、今日だけは違う。誰も気にしないでいい。思いっきり自分の思うように動いていい。この憧れの世界で。
とはいえ時間は有限、とりあえず城を一周というところですでに3時間。ヒントの隠し場所を物語の流れを考慮しながら決めるのに2時間。実際にヒントを書いて全部隠し終えるのに2時間。
アカネが全ての作業を終える頃にはすっかり暗く…はなっていなかった。なぜならここはスコットランドの夏。日が暮れるにまだ時間がある。
それでも、ダンブルドアはそろそろ帰ってくるだろうし、あまり待たせるのも気がひける。
だが一つだけ、アカネには最後にしておきたいことがあった。叶うかどうかはわからない。だが、もしかしたら。
今ばかりは、考えるよりも行動してみよう。姿はどうせ見えないのだから。いざとなれば走って必要の部屋に逃げ込めばなんとかなる。…地下牢から必要の部屋はとても遠いけれど。
そう、アカネは最後に最愛のあの人に会おうとしていた。
「いざとなると緊張感するなあ…どうしよう、私どうなっちゃうんだろう…」
スナーピズエンドの自宅に帰っている可能性はほぼない。明後日から新学期が始まるからだ。現に他の教授達を今日何度も見かけた。だから十中八九、『彼』は自室にいる。
会えることは嬉しくてたまらないが、自分がどうなってしまうのかわからない。いつもだったら、絶対にありえないことだ。アカネにとって、自分の気持ちはいつだって制御の効くものだったから。でも、彼に関することだけは別だ。きっと感情が暴走してしまうだろう。
「でも、そんな自分にすこしワクワクしてる…。抑えられないほどに湧き上がる感情なんて、もう私はなくしたものだと思っていたから」
そうこうする内にアカネは地下牢の前に立っていた。
ゴクリ、と唾を飲んで、そっとドアノブに手をかける。そっと、がちゃりとノブを回すと、幸運にも鍵はかかっていなかった。ほんの少しだけドアを開けて、静かに部屋に滑り込む。
教室に彼の姿はなかった。
(え、嘘…もしかしていない?)
思わず肩を落としかけたアカネだが、教室の奥にある彼の自室の方から聞こえた物音に再び目を輝かせた。扉は開いている。
慎重に歩みを進めていく。油断大敵、だ。なんといっても相手は透明マントを被ったハリーに気づく神経の持ち主。気を抜いたら命取り。
だが、そんな注意もドアの奥にいた彼の姿を見た瞬間に頭から吹き飛んでしまった。
(ああ、スネイプ先生っ…)
彼がいる。目の前に。生きて、動いている。想像通りの姿で。
映画の彼とも少し違う。決して綺麗な顔ではないし、髪は確かにベトベトした印象を受けるし、鷲鼻だし、猫背だし、おまけに眉間の皺がすごい。普通の人はまず絶対にお近づきになりたがらないだろう人相。しかし、アカネにとっては恋い焦がれてやまなかった人だ。彼の瞳が見えた時、改めて彼が好きだと思った。あの、鋭くて冷たくで、でも一番奥に優しさが隠された瞳を見たかった。
もう、気持ちが抑えきれなかった。涙が止まらず、嗚咽が漏れる。
当然、それに彼が気づかないはずがない。一度びくりとした直後には杖を抜いてこちらを睨みつけていた。
「誰だっ」
だが、アカネは泣きじゃくるばかりで返事ができない。スネイプは相手の姿が見えないことにさらに警戒しながら、こちらに向かってゆっくり歩き出した。そして二人の距離が2mほどになった時、スネイプは相手が泣いていることに気がついた。しかも少女の声だ。
「…嘆きのマートルか?」
確かに、このホグワーツにおいて泣いている少女で姿が見えないとなれば、大多数の人がマートルを想像するだろう。ゴーストはその気になれば姿を消せる。そもそも姿を消す魔法、または透明薬は簡単に生徒が利用できるものではないし、そもそも今は夏休み。生徒がいるわけがない。さらに言えば、こんな泣きじゃくってスネイプに姿を見せるような間抜けな不審者もなかなかいないだろう。
スネイプはそこまで考えて、少しだけ警戒を解いた。
「あー、マートル。申し訳ないが、君がそこにいると我輩の仕事の邪魔だ。泣くならば自分のトイレで泣きたまえ」
だが、まだ泣き声は止まない。
そこまできて、スネイプは違和感を覚えた。記憶のマートルの声質とかどこか違う気がする。
再び疑念と警戒の光がスネイプの目に宿ったところで、ようやく泣き声の主は言葉を発した。
「…わたしはっ、マートルっではっありませ、んっ…。わたっ…しはこの城に、いる、たくさんのゴーストの、中のっ一人で…、」
確かにその存在からは魔力の欠片も感じなかったため、信憑性もあった。スネイプはそのことさえわかれば、目の前にいるであろうゴーストの正体にはなんの興味もなかった。
「我輩は君の素性には1ミリたりとも興味はない。ただ、とにかく君の存在は我輩の邪魔だ。この部屋から出ていきたまえ」
スネイプが冷たく言い放ったが、目の前から気配が消える様子はない。スネイプの苛立ちは更に積もっていく。
「…っ貴様」
「私はっ、貴方に…貴方がっ!!」
怒鳴りつけようとしたスネイプの言葉を遮って、アカネはゆっくり、自分を落ち着かせながら話し始めた。
自分に気づいてもらうつもりなんて当初全くなかったが、会ってしまったならばどうしても伝えておきたいことがある。どう受け止められようとも構わない。でも、記憶をなくしてしまう前に、これだけは
「私は…あなたを知っています。同じ頃…ホグワーツに在学していて…卒業して、大人になって…あの暗黒の時代に、死喰い人によって殺されて…この城のゴーストになりました」
「ふん、では元死喰い人である我輩を呪いにでもきたのかね。だが、あれから11年も経った今になって何故現れた」
スネイプはアカネの目的はお見落としだとばかりに鼻を鳴らす。例え恨まれようと、自分はまだ死ぬわけにはいかないし、そもそもゴーストに何かできるわけもない。そうやって冷めた目で見つめてくるスネイプに対し、アカネが向けた言葉は彼の予想とはまるで違うものだった。
「…私は、未練があって、でも、それは貴方を呪うとかそんなことではなくて、ただ一言貴方に伝えたいことがあったんです」
「…言ってみたまえ」
仕方なさそうに促したスネイプをまっすぐ見据えて(とは言ってもスネイプにアカネの姿は見えていないが)アカネは一言だけ、しかし万感を込めて伝えた。
「私は貴方が…好きでした。」
本当は、今も好きですと言いたかった。しかし、それは許されない。彼にとってあくまで過去のこととして終わらせておかなければ、今の彼に影響を与えかねなかった。
「っ言いたいことはそれだけ、です。さようなら、『私』が貴方に会うのはこれが最初で最後です」
驚きで言葉がでないスネイプを残し、アカネは静かに、しかし早足で、そっと部屋を出ていった。
廊下を駆け抜け校長室に向かうアカネは自分の行動を思い返していた。咄嗟に考えた嘘だったが、まず見抜かれることはないだろう。何せこの『私』は今日でいなくなるのだから。そしてリリーという絶対の存在を心に住まわせているスネイプにとって、過去の自分への告白など、一瞬の動揺を与えこそすれ、大して大きなものにはなるまい。
(なんにせよ、最後に願いが叶えられて良かった)
言いようのない満足感に、朝よりも更に足取り軽やかに進むアカネは未だ地下牢で固まったままのスネイプの姿など想像もしていなかった。
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「あの時の、我輩を…」
アカネは確かに物事を客観的に見ることのできる頭を持っているが、ことスネイプに関してはそれは正常に作動しない。スネイプの容姿が良いものではないことはわかっていても、学生時代、彼がまさに一度たりとも異性に好意を抱かれたことがないとは思ってもいなかったのだ。一人ぐらい告白されたことはあるでしょ、と軽く考えていた。
確かにこの時のアカネの告白はスネイプの心に大きく影響を及ぼすものではなかったが、その後丸一日彼の作業効率を多少落とす程度にはちょっとした事件であった。