short night

□冬は寒い
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 世界は法則であふれている。
 仕事には決まった羽織を着ていくという習慣的なものもあれば、雨の前には燕が低く飛ぶという言い伝えのようなものもある。
 藤紫雪乃は、決まりきった生活という穏やかな法則の中で生きてきた。
 のんびりとしていて頼りなく見られる彼女だが、意外にきっちりとした性格なのだと自身では思っている。
 月曜日の朝には窓を磨き、火曜日の帰りは行きつけの和菓子屋に寄る。水曜日の午後は図書館で本を借り、翌週水曜日には必ず返却する。他にも、晴れた日には必ず布団を干し、掃除洗濯の手順も決まっている。
 もし彼女を監視する者がいるとすれば、すでに見た光景が延々と繰り返されることだろう。
 その退屈とも言える法則の中で彼女が一番重んじているのは、『夜、布団の中の読書は心地よい眠りにつながる』というものだ。
 以前から寝つきが悪かった雪乃は、友人の勧めで大して好きでもない読書をすることにした。図書館で短篇集を借り、それを就寝前に一、二篇読むだけなのだが、文字列が呼び寄せる睡魔は彼女の寝つきに大きな効果をもたらした。
 だがこの一ヶ月ほどで、その法則が新たなものに書き換えられようとしている。




「――ふ、ふわぁぅ」

 気が付けば、何度も同じページの上を行き来していた。
 雪乃は噛み殺しきれなかったあくびを漏らし、文庫本を閉じる。湖の水紋を延々と描写した抽象的すぎるその一篇に、睡魔がどっと押し寄せる。
 だが理由はそれだけではない。雪乃の部屋には、彼女以外の寝息が響いている。
 畳部屋の寝室の端、雪乃の布団から少し離れたところで毛布にくるまって眠る者がいた。くしゃりと毛布からはみ出した淡い色の髪、傍らに置かれた刀、乱雑に脱ぎ捨てられた黒の上着。その人物は夜間に突然やってきて、玄関先の隠し鍵で部屋に入ってきては、数時間の仮眠を取って帰っていく。雪乃が起きていようが眠っていようがお構いなくである。だが、寝る前の読書中に彼がやってきて、さっさと寝息を立て始めるのを聴いていると、雪乃も自然と眠たくなってしまうのだ。
 その彼――沖田総悟とは、恋仲というわけではない。知り合ったのはもう半年も前なので、よそよそしいわけでもない。だからこそ、法則化した彼の訪問が不可解なのだ。
 読書灯を消せば、暗闇の中で沖田の気配だけが衣擦れで感じられる。雪乃もまた布団を肩まで引き上げて潜り、目を閉じた。
 何がどうしてこうなったのか。最近はそればかり考えている。だがいつも眠気が訪れてからの思考なので、答えが出ることもない。
 雪乃はふと、これまでの経緯を思い出していた。沖田との出逢いは、いろいろな意味で衝撃的だったのだ。




 雪乃は、甘味茶屋で女給をしている。小さい店で店内のことは店主の妻が切り回しており、雪乃は店内での給仕よりも御得意先への遣いをよく頼まれていた。その日も、そうした事情で店のお仕着せのまま遣いに出ていたのだ。
 店が忙しくなる時間までまだ余裕があり、ゆったりと歩いて戻っているところだった。前方から歩いてきた黒服の二人組とすれ違う瞬間、そのうちの一人と目が合った。気のせいだとやり過ごしてはみたものの、抗いがたい気持ちで振り返ってしまう。すると、すれ違った亜麻色の髪の男――沖田総悟もまた、こちらを振り返っていた。
 その場に立ち止まったのは雪乃だけであったが、静かな電流のような痺れを確かに感じていた。
 次の瞬間、雪乃は事故に見舞われた。出前の自転車と衝突したのだ。正しくは、ぶつかられ、転倒した。
 わっ、と周囲に騒ぎが広がったが、沖田が駆け寄ってくることはなかった。沖田ではなく、もう一人の黒服に病院に行くか問われたが、雪乃は怪我もなく、自力で立ち上がって首を横に振った。
 何か確信めいた感情にざわめいたのは一瞬のことで、雪乃もすぐに忘れてしまうはずだった。だが翌日、沖田と再び出逢うことになる。雪乃の働く甘味茶屋は、真選組屯所のすぐ近くだったのだ――。




 沖田に惹かれている。
 それは出逢いの初めから決まりきっていた。雪乃はまだ一八歳という、恋に焦がれる年齢なのだから仕方がない。
 だが幸か不幸か、雪乃には深く恋愛を突き詰めていくだけの気概も経験もなく、自分よりも大人びて見える沖田の言動に翻弄されるばかりだった。思えば雪乃は、事あるごとに、あらゆる場面で沖田の助けを借りてきた。
 夜陰の静けさに睡魔の波は深まり、瞼はもう持ち上がらない。ふとした瞬間に沈んで途切れる意識の中で、雪乃は一ヶ月前に聞いた沖田の言葉を反芻する。
 約一ヶ月前、女友達との夕食を楽しみすぎて、帰宅が深夜前になった。人のいない通りの電灯は瞬くばかりで頼りなく、背後に不気味な足音が聴こえるような気さえした。家が近くなり早足になりかけたところで、真選組の車に横付けされた。助手席から降りてきたのは沖田で、運転手に何か伝えてからドアを閉めた。
 滑り出した車の方向指示器の灯りが見えなくなると、沖田が言った。

「送りますぜ」
「あ……はい。ありがとうございます」

 五分も歩く間もなく家に辿り着き、それでも沖田と取り留めのない世間話を続けながら巾着の中の鍵を探していると、雪乃よりも先に沖田が予備の隠し鍵を見つけてきた。万が一のため、ガス計の裏に引っ掛けてあるものだ。そもそもガス計は配管隠しの鉄蓋で閉ざされていて計器のメモリしか見えないので一目で鍵の在り処がわかるはずもないのだが、沖田には一瞬で予測がついたのか十円玉で器用に鉄蓋を開けて鍵を取り出していた。

「隠し場所、変えたほうがいいのかな」
「いんや。郵便受けに入れるよりはマシだろうねィ」

 巾着の中で、指先が鍵に触れる。だが雪乃は、沖田から受け取った予備の鍵で扉を開けた。

「なァ、雪乃。暖とらせてくだせェ、ちょっとだけ」

 十一月も半ばを過ぎれば、夜は冬らしい寒さに凍える。
 恋愛の経験が乏しくとも、雪乃は無知なわけではない。心惹かれる男性を部屋に招き入れることへの期待やときめきで、胸がざわついた。だが気のない振りを決めこんで、沖田に扉を開く。
 雪乃の部屋に上がりこんだ沖田は、暖房で部屋が暖まると間もなく、こくりこくりと居眠りを始めてしまった。また彼の行動に翻弄されていることに気付いた雪乃だが、自身もうとうとしながら沖田の動向を見守るしかなかった。
 そして、いくらか時間が経ち、沖田が動き出した物音が遠くに聴こえた。眠さのあまり身体を持ち上げることはできなかったが、薄っすら開いた目で沖田を捉えていた。
 立ち上がって毛布を畳に落とした沖田は、机の上に置いてあった予備の鍵に手を伸ばす。だがそこで動きを止めた。

「――俺たち、もっと近付いたらどうなるんだろうな」

 背中越しの問いが、呟きのように生ぬるい空気の部屋に散っていく。半分眠ったままの雪乃は、答えもままらない。

「ん……」

 雪乃と沖田の距離が縮まったら、どうなるのだろうか。それは、恋人になるということだろうか。それとも、気持ちの伴わない実利的な関係のことだろうか。雪乃には、どう答えるべきかわからなかった。恋人の意義も、肉体関係の根深さも、雪乃はまだ知らないのだから。

「――なんて。答えが出る頃にァ、もう遅ェんだろうな」

 まるで、自問自答だ。自嘲じみた声音で吐き出された言葉は、沖田が鍵を掴んだ音で掻き消える。
 沖田は、雪乃に声を掛けることなく部屋を出ていった。がちゃりと鍵が掛かる音がやけに寂しく響く。沖田の遠ざかる足音を聴いているうちに、雪乃はまた自然と眠りに落ちていった。すべての思考を放棄するように。胸の奥で膨らむ期待とときめきを棚上げするように。
 その夜、雪乃は久しぶりに読書をせずに深い眠りに就いた。彼女の世界の法則に、変革がもたらされた最初の夜である――。








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