本編

□prologue 4. 螺旋の輪
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Prologue

4. 螺旋の輪



『これは、私だけが知る事実である。
決して他の者に知られてはならない。
弟を……覚醒させてはならないーーー』



昔から、兄……隼(しゅん)は何でも上手く出来た。
生まれつき視力の乏しい弟である涼とは違い、身体能力に優れ更に様々な事に類い稀な才能を示した。
だからかも知れない。両親の愛情が偏るのは時間の問題だったのだ。
それでも、隼は優しく接してくれた。
不自由な事の多い涼を、隣で支え続けてくれたのだ。
「兄さんは、僕の自慢なんだ。優しくて、強くて、眩しくて……僕には、何一つ無いものばかり持っているから」

兄さんみたいになりたい。
これは憧憬。
兄さんみたいになれたら。
これは羨望。
兄さんみたいに自由があれば。
これは欲望。
兄さんだけ……ずるい。
これはーーー嫉妬。

どす黒い何かが、ぐるぐると腹の底で渦巻くのを感じた。
吐き気を催すような震えとは裏腹に、穴の開いていた心の隅を埋めるような気持ち良さが脳を支配する。

兄さんみたいには、なれないよ?
でも兄さんが居なくなれば愛して貰えるかも知れないよ?
愛して貰えれば、幸せなの?
きっと心地よい程幸せだよ。
愛されたら満たされる?
満たされるよ。お前は愛を知らないだけなんだ。
どうすればいいの?
……意識を、少しだけボクに貸してくれれば。それでーーー





*****




兄による理不尽な暴力は、僕が高校に入って突然行われた。


世の中には完璧な人間がいる。
天才、鬼才、神童……。
これは一部分にすぎないが…、何もかもが上手くいき、挫折を知らず、溢れてしまうほど沢山の才能を持つ人間の総称を網羅したまでだ。
……詰まるところ、兄はその”完璧”とされる人間だった。
頭が良く、運動神経も良い。
美形で性格も文句の付けようがない。
すらりとした体躯は見る者を釘付け、優しげな表情と柔らかなテノールの声は女性を夢見に誘い、男性を癒やす。
嫉妬すら適わない、隼という人間は既に人としての領域を凌駕した……そう、盲目で光を失った僕とは違う……まさに”光”そのものの筈だった。

「涼。こっちへ来い」
兄の光は、影を映さない外部だからこそ美しく輝く。
光を映すことの無い僕の瞳には、……視たくもない兄の影しか映らない。
「兄さん…僕は……」
「場所を示されても見えないんだろう?知っている」
「じゃあ、何で……っぐ⁉︎」
暗闇から伸びたであろう白い腕が、僕の髪を掴み近くにある寝台まで引っ張った。
痛みより何より、兄の”視えない”表情が不安と慟哭を駆り立てる。

怖い、嫌だ、誰か助けて。

喉はひりひりと枯れ、掠れた声音は恐怖に彩られていた。
「に、いさ…ん…っ、離して、下さい!!」
「……黙れ。こうするしか、方法は無いんだ」
寝台へと投げられ、両手を拘束される。
学校から帰ったばかりで着替えていなかった制服のシャツのボタンを外され、露わになった肌に何かが触れた。
其れはとても冷たくて長く、切っ先は鋭利で、白い肌にゆっくりと沈んだ。
「ひ、っ……や…め……」
兄の手にある鋭利な刃物は力を込められ、そのまま僕の胸の上皮を薄く切り刻む。
「痛っぁあッ!!……やめ、兄さ……!!」
「……っすまない、涼……だがーーー」

兄はいつだって、優しかった。
抵抗する事が出来ない訳ではない。
信じたくなかったんだ。
優しかった兄が、こんな事をする訳が無いと。抵抗してしまえば、その事実を受け入れているような気がして、何も出来なかった。

鼻先に錆びた鉄に酷似した臭いが届く。
痛みより何より、何も映さないこの瞳が憎かった。
肌に感じる水滴が何色なのか、たったそれだけでも分かれば……別の未来があったのかも知れないのに。


これは、事件が起こる3日前の出来事。
  



*****




「……それはないだろ」
「だって!!実際にこんな傷が付いていて他に誰がいるってんだよ⁉︎」
「少なくとも、俺は疑う余地”しか”ないな」
とある一室。
男子高校生の部屋にしては、何もなさ過ぎる質素な部屋に言い合いのような喧騒が響いていた。
「隆巳(たつみ)は涼のことが心配じゃないのかよっ!!」
「心配に決まってる。だからこそ早期決断は涼にとって危険だからって、今こうして話し合ってるんだろ」
「……二人とも、喧嘩は……」
小さなデスクテーブルを囲む三人の男子高校生は、何かの話し合いをしているようだった。
小首を傾げたまま呆けている、たった一人を除いて。
「っあんたの事だろ!?……あ……ごめん、でもさ…少しは真剣に考えようぜ。涼の”それ”はもう…」
「翔太(しょうた)‼︎ーーー本人に、問いたださないって決めたろ」
「でも!!」
翔太の口を塞ぎながら、隆巳は立ち上がる。
涼は依然として、虚ろな瞳を物音のする方向にだけ彷徨わせて、切なげに笑った。
「……大丈夫だよ。今に始まったことじゃないから。これは贖罪なんだ」

罪。
それは、他者には決して理解を得ることのない罪。
しかし、翔太も、隆巳も、痛いほどに……涼の言葉から目を背ける事が出来なかった。

「涼は、俺達で守るって……決めたんだ……だからっ!!」
翔太は隆巳を押しのけて、視点の合わない涼の手を優しく握る。
押しのけられ、近くの寝台に仰向けに背を伸ばした隆巳も、涼の頭を軽く撫でた。
「俺は……まだ疑ってる。お前を信じてない訳じゃない。それでも、常日頃の隼先輩を見ていると、どうしてもお前を傷つけてるって事が分かんなくなっちまう……すまない」
小さく歯軋りをする音がした。
握られた手が、頭を撫でる手が、わなわなと震えている。
二人はもどかしいのだ。
犯人は分かっている、だが証拠がない。
否、証拠があっても…彼の権力の前では一瞬で、もみ消されてしまうだろう。

助けたい。
どうして、こんなに強くそう思うのかは二人にも分からなかった。
或いはーーーここで手を差し伸べなかったら、涼は消えていなくなってしまうのではないか、と、恐れていたのかも知れない。
「ありがとう。二人が居てくれるから僕は、大丈夫だよ。……違う。二人がいれば……僕はどんな事にだって、耐えられるから」
涼は盲目であるが故に、二人の顔を視ることが出来ない。
だが、気にはならなかった。

何処かで知っているから。
何処かで、きっと……巡り逢うから。

だから、涼が望むのはただ一つ。
二人と、ずっといられますように。
そう。”ずっと”ーーー。




*****




その日。
僕は、原因不明の高熱で学校を休んだ。
身体が動かない。
頭も上手く働かない……。
痛い、身体が自分のものではなくなってしまいそうだーーー。

誰?僕を、呼ぶのは。
僕は、戻らない。そして逃げない。
それが僕の最後の足掻きだから。
だから、目覚めないで……!!
まだ、……まだ、”彼等”は記憶を取り戻していないんだ!!



「凉っ‼︎」
呼び掛けられて気怠い身体を無理矢理動かす。
瞳を開けるが、姿を視認出来る訳はない…だが声で翔太と隆巳だと分かって、涼は安心して笑った。
「ん、…二人とも……学校は、どうしたの?」
「ンなもんばっくれて来たっての‼︎‼︎」
「……隼先輩を問い質して、な。また何かあったんじゃないのかって、こいつが煩くてな」
「はぁ⁉︎隆巳が様子見に行こうって言ったんだろ⁉︎何で俺が煩いになるんだよ‼︎」
二人の手は汗だくで、呼吸も乱れている。……恐らく走って駆け付けて来たのだろう。
「心配しすぎだよ、もう……。熱も少し下がったから……ありがとう」

そう。ありがとうーーー兄が、手出しの出来ない状況を作ってくれて。


ドアが突然大きな音をたてて開いた。翔太は驚いて振り返り、隆巳はその先の姿を確認するなり凉を庇うように身構える。
だが、一番驚いているのは…。

「お前達ッ!!早く凉から離れるんだっ!!」

兄である隼だった。
隼は鬼をも殺す程の形相で二人に向かって叫ぶ。が、毅然として二人は動かない。
隆巳が凉を庇い、翔太は立ち上がって隼に近付いた。
「ーーー凉に、何をしてたんすか?……隼先輩」
翔太の口調は確実な怒りを含んでいる。
少なくとも、隆巳も、先程まで学校にいた隼が自分達を追い掛け慌てて帰宅したこの状況を怪しんでいた。
だが、隼はその言葉に耳を貸さずにもう一度叫ぶ。
「いいから退くんだ!!お前達は……まだ死ぬ時期じゃなーーー」
「五月蝿いよ、兄さん」
静寂が、その場を支配する。
驚く隆巳と目を見開く翔太の横を、刃渡20cmもの包丁を隠し持っていた涼が、闊歩した。
空気が凍るのを、何が起きようとして居るのかを、最初に察知したのは隼だった。
涼の両腕を抑えつけ包丁を取り上げようと床へ引き倒す。
力で敵わないのを悟ったのか、涼は楽しそうに微笑んで隼へと囁いた。
「兄さん。いいの?二人とも、まだ何も思い出して無いんだよ」
その言葉に隼の表情が豹変する。
歯を食い縛り涼にしか聞こえない声で「……下衆が」、そう一言呟いてーーー。
力を緩めた直後に、刃が隼の脇腹を深く抉り刺さった。
フローリングの床に吐き出される血液が、その傷の深さを物語る。
異様なまでの光景に、隆巳は身体を強張らせ、翔太はーーー。


”慈悲と愛に溢れた光明神は……その存在が影そのものである盲目神に殺される……
そして盲目神は”


「ひッ……や、だ…何……身体が、勝手、に……!!」
「殺してよ。翔太。君の出番だ」
恐怖に表情を歪めた翔太が血だまりで微笑む涼の手から包丁を取り上げ、その切っ先を床に倒れている涼へと向けた。
「嫌、い…や、だ……止ま、れ……止まれええええええええッ!!!!」


”慈悲と愛に溢れた光明神バルドルは……その存在が影そのものである弟の盲目神ヘズに殺される……そして盲目神は復讐神ヴァーリに殺される”


「ふぅ……一度に三人……衰えた私でも、連れて逝けるだろうか」
空を飛ぶ男は、部屋中に散りばめられた血痕に視線を映しながら、呟く。
ドアの前で赤に染められながら死んでいる息子と、床を赤く染めている息子、そして。
「さて、最期の一人を迎えに逝こうか」




*****




「翔太、おいッ‼︎」
「俺、は…誰?……だって、違うッ!!俺は…人間でーーー神、なんかじゃ……」
「翔太ッ!!!!」
「隼先輩を殺した凉を、殺さなければ…違う、殺す為に……俺は、生まれ、て……」
真っ白になった脳裏の中、ただひたすらに隆巳は翔太の肩を激しく揺さぶった。
気付いたように顔をあげた翔太の身体を何かが貫く。
「……こんにちは、復讐心ヴァーリ、沈黙神ヴィーザル。……我が息子達よ」
翔太の心臓を貫く槍が。
余りにも、綺麗だった。
目の前の不敵に微笑む男が、皆を連れて逝くかのように空を抱き締める。



隆巳は、むせ返りそうな血の匂いすら忘れて、泣いた。
何も分からない、何が起こったのかすら、もう分からなくなってしまった。
違う。
動けなかった。何も出来なかった‼︎‼︎
隼先輩は、全てを知っていて尚殺される事を選んだ。
涼を傷付けていたのは、もう一つの人格を引き摺り出す為だったのかも知れない。
翔太は自分の意志で凉を刺したようには見えなかった。
では何故殺したのか。
昂ぶる感情とは裏腹に、不思議と冷静な脳は答えを少しずつ紐解いていく。

ーーーあの男が……あの男が全て仕組んで、全て知ってる。




隆巳は一人、冷たい瞳で床に転がる包丁の刃を掴んだ。
まるで何かを誓ったように。

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