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□道化師の涙
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この手で覆ったのは、月か心か。










漆黒を秘めた灰色の空と重く湿った空気が、生温い雨を呼ぶ。

しとしとと降り始めたそれは、柔らかくて物悲しい。

少々足早になれば、煌々と光る馴染みの自販機が見えた。

煙草を切らす度に、何度これの世話になっただろうか。

硬貨を入れてボタンを押せば、煙草が一箱、呆気なく落ちる音がした。

雨で湿気てもいけないと思い、それを手にしたまま隊服についた雨露を軽く払う。

上空は風があるのか、薄い曇天はするすると流れていく。

この調子なら雨もすぐに落ち着くだろう。

天を仰いだ俺は、自販機の横に位置する軒下へと身を寄せる。

ここで煙草を吸っているうちに、雨も上がるはずだ。

完全に止まなかったとしても、頃合いを見計らって帰ればいい。

そう考えながら足元に目を向けると、そこには黒い塊があった。

否、それはよく知る人物の姿だ。

ソイツは俺を見ることなく、ぼんやりと誰もいない夜道を見つめている。

みょうじなまえ。

真選組の副長補佐。



「何してんだ」

「副長こそ」

「俺ァ煙草を買いに来ただけだ」

「私はジュースでも飲もうかと思って…」



俺の顔を見ないまま、みょうじはぼそぼそと大人しく答える。

そんなものは屯所近くの自販機でも買えるし、用がそれだけならここにいるはずがない。

明らかに茶番の匂いがしたが、否定すればそれで終いだ。

どうせ雨宿りをしなくてはならないことに変わりないと思った俺は、あえてコイツの話に耳を傾けてみる。

「でも、ジュースのボタンを押したらこれが」

みょうじは相変わらず、俺の顔を見る気はないらしい。

目も合わせないまま、コイツの手は俺のほうへとまっすぐ伸びた。

「よかったらどうぞ」

促された俺が受け取ったのは、温かい缶コーヒーだ。

無糖と書かれたそれを飲むみょうじの姿は未だに見たことがない。

「ブラックか」

「ちゃんと『つめた〜い』って書かれたボタンを押しましたよ?…なのに、」

「出てきたのがこれじゃ不服だろ」

「最悪です」

コイツの表情ははっきりと見えないが、文句を言う口調は仏頂面を想像させる。

コーヒーの缶を手放したみょうじは両手に息を吐き、指先をさりげなく温めた。

ジュースを買おうとしたのは、飲むためではなく腫れた目元を冷やすためかもしれない。

現にコイツは鼻声を隠し切れていなかった。

みょうじがどうしてこんなところにいるのか、時折声が震えるのは何故なのか。

察しているのに問いかけてしまうのは、コイツを追いつめたいからなのかもしれない。

現状と向き合えば、今していることがどれほど報われないかよくわかる。

例えば、コイツの横で何もできずにいる俺のように。



「しかも雨まで降ってくるし、今日はもう散々で」

「傘は借りなかったのか」

「どこでですか」

「店でだ」

「…すまいるには行ってません」

「別にスナックだなんて言ってねェよ」



俺の言葉を最後に、沈黙が広がってしまう。

知っている。

コイツが上司である近藤さんに惚れていることも、近藤さんの幸せを願って思いを告げずにいることも。

そういうことがわかってしまう距離で生活しているし、そもそも俺はその感情に心当たりがあった。

相手の幸せを考えるほど、何もできなくなってしまう。

そのくせ傷つくときだけは一人前で、叶わないと悟っているのに諦めもつかない。

不甲斐なさを誤魔化しながら毎日を生きているだなんて、我ながら情けない話だ。

そんな俺の心を無意識のうちに見抜いたのか、みょうじは鼻声で呟いた。

「副長は卑怯です」

「そうだな」

否定はしない。

今だってそうだ。

みょうじの姿が見当たらず、出かけたのだろうとここまで探しに来てしまった。

近藤さんもまだ戻っていないところからすれば、コイツは酔い潰れた近藤さんを迎えに行ったのだろう。

そこで何か気を落とすような場面に遭遇したに違いない。

後付けの理由がジュースだなんて、嘘をつくのが下手すぎる。

だが、俺も決して人のことは言えない。

煙草の買い置きは、まだ押し入れに山ほどある。

それでも煙草を買いに行く、そんな口実を使ってこの場にいる俺が高尚なことを言えるはずもない。

報われないのは誰なのか、答えならとっくに出ていた。





煙草に火をつけ、深くゆっくりと溜め息をつく。

湿気のある空気は、気怠そうに煙草の煙をゆらゆらと押し流していった。

自販機に小銭を入れて、温かいミルクティーを一つ買う。

甘ったるいそれを手にした俺は、缶でコイツの頭を軽く小突いた。

「副長?」

「オマエはこっちだろ」

「あ…ありがとうございます」

恐る恐る手を動かしたみょうじは、ミルクティーの缶を受け取る。

腫れた目元を鎮めるなら、ジュースのほうが相応しいだろう。

だが、冷たい物を渡すつもりなんざ毛頭ない。

一人で上手く泣き止む方法なんて、コイツには覚えてほしくなかった。



「止むまで付き合ってやる。その代わり、帰ったら仕事手伝え」

「…帰る気力を早速なくしました」

「文句言うんじゃねェ」

「パワハラで訴えますよ」

「できるならやってみろ」

「今の言葉忘れないでくださいね、沖田隊長と組めば…」

「オマエもな」

「え?」

「その元気、忘れんな」



次の瞬間、みょうじはようやく俺と目を合わせた。

濡れた睫毛をしぱしぱと瞬かせて、俺の言葉の真意なんざ何も知らない顔をして。







雨はまだ止まないが、徐々に小降りになり始めていた。

これくらいなら、何とか屯所まで戻れるだろう。

上着を脱いでみょうじの頭に被せれば、コイツはそれを突き返すでもなく、ただ被ったままでいる。

缶コーヒーの蓋を開け、数口で中身を飲み干した俺は、横にあったごみ箱へと空き缶を投げ入れた。

「帰るぞ」

手を差し出してみれば、みょうじは俺の手を握り返してくる。

引っ張り上げると、コイツは抵抗せず静かに立った。

俺もみょうじも、幸せには程遠い。

それでも嫌えないなんて、相当な重傷だ。

雨を理由にやや早足で、革靴の音に急かされながら歩く。

温い雨が降る中、二人しか人影がない路地裏は感情を隠しておくのに丁度いい。

みょうじは手を繋いだまま、掠れ声をぽつりと漏らした。



「いつかきっと、止みますよね」

「止まない雨はねェんだよ」







道化師の涙


   

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