「えっ!兄ちゃんの同級生って、本当にあの富士鷹先生なの?」

しまった、ついうっかり口が滑ったと、目の前で瞳をキラキラさせている久々に見る弟の顔を見下ろしながら、俺は内心舌打ちをしたい気分になった。

富士鷹茄子男というのは、今をときめく大人気漫画家の名前であるが、その正体は俺の高校時代の同級生である。
今はほとんど連絡を取らなくなったが、同じクラスの頃は結構喋っていたこともあった。


来年から受験生だというのに、当然勉強なんかよりも動画や漫画アプリ、課金ゲームに夢中なこの歳の離れた弟が、嬉しそうに俺にまとわりつく。「えーっ、マジで!スゲーっ!」

「ねぇねぇ、どんな人だった?連絡先は!?知ってる?」

「知らない。卒業してからほとんど会ってないし。大人しそうな感じだったけど」

「えー!クラスのグループラインとか残ってないのかよ!そっから辿れたりしない?」

「そんなもん、俺がとっくに抜けてるわ」

「え〜。なら友達が誰か知ってたりは?あー、サイン貰えないかなぁ〜。あ、貰えるなら2枚欲しい!1枚は家宝にして、もう1枚はメロカリで売る!」


「このバカ」


どこでそんなことを覚えるのか、と、軽く小突くと、だって、友達も皆やってるよと、本人は悪気なく嬉しそうにケラケラと笑う。

久しぶりに、家族とこんな風に話せて、俺は幸福を感じた。顔を見れただけでも、久しぶりに帰った価値があった、と思った。


「お兄ちゃん……今日は、泊まるんでしょう?」


しかし、その時間もそろそろここで終わる。
相変わらず弱々しそうな、それでも、一時よりは大分マシになった母親が、チラチラと時計を見始めたからだ。
このままでは、もうすぐ親父が帰ってくる。
俺はサッと立ち上がった。


「いや、今日はもう帰るよ。ご馳走さま」

その瞬間、洗いものをしていた手を止めて、物凄い形相でキッチンから母親が身を乗り出す。

「何で?せっかくなんだから、泊まっていけばいいじゃない!」

「いや、二人の顔が見れただけでも良かったから」

そのやり取りを、弟が見てない振りをしながら、しっかり背中で聞いていることも、俺はちゃんと知っている。制服姿のままソファーに寝そべって、振り返らないまま、


「兄ちゃん、もう帰る?」

「うん」

「辰輝!」

何とか食い止めようと、俺を遮る母の目から、

(今、どこで何をしているのか)
(仕事は?)
(ちゃんとしているの?)

という無言のメッセージを、痛いほど感じながら。

「俺が会っても空気が悪くなるだけだろ。また今度ちゃんと話すから」

「でも、お父さんに顔だけでも……」

「おい、柚希」

会話を逸らすため、携帯に目を落としたまま振り返らない弟に俺は逃げる。


「受験は大変だろうけど、まぁ頑張れよ。あと大学もだけど勤め先も、なるべく実家から通える距離にしろ。おまえはちゃんと堅実に貯金しろな!」

「え、やだよ。俺も早くひとり暮ししたい」

「ゆずちゃんまでバカなこと言わないでよ」


玄関先まで三人でわいのわいの言いながら、結局その日はまた、親父に会うことはなかった。



季節はもう冬だった。







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(そういえば、懐かしい名前が出たな)


帰り道、寂しくコンビニに寄りながら、立ち読みしてるコミック雑誌に載ってるその名前を俺は改めて凝視した。

漫画家としての名前は富士鷹茄子男、本名藤村は、高校時代2年間同じクラスだった。
大人しく、いつもボサボサ頭で、黒縁メガネの向こうの丸い瞳が、いつもおどおどと揺れていたのが印象に残っている。
卒業後は確か、イラスト系の専門学校に行ったと聞いた。
いつもノートに落書きをしていて、授業態度が不良ということで二人揃って作文なんかを書かされたこともあったが、今では夢を叶えたのだな、と、かつての友人の活躍に胸が熱くなった。




同級生だと言うことは、なるべく黙っていようと思ったのに。
今の自分とはあまりに違いすぎるから。




あの日を思い出し、俺はチクリと胸が痛むのを感じた。












実は卒業後、一度だけ、藤村とバッタリと再会したことがあった。

今回みたいにたまたま実家に帰ったときに、あちらも親戚の結婚式だか何だかで地元に帰ってきていたのだ。
丁度自分は大学生、あちらは専門学生と、お互いまだ新たな学生生活を謳歌している時期だった。


『どう?そっちは。専門学校って楽しい?』


その時は適当に近場のファミリーレストランに入って、暫しの再会を懐かしんだ。
相変わらず、もう二十歳になるというのにいつまでも子どもみたいな印象を受けた。友達は何とか一人出来たけど、彼女は出来ないし、あまり楽しくないと。でも、とにかく絵の練習や、話の構想を練ったりその為に休日は図書館で日々勉強しているとのことだった。

当事、言われるがまま進んだ大学で、適当な日々を過ごしていた自分は単純に、せっかくの学生なのに、可哀想なヤツ、と思った。単純に勿体ないと。
深い意味はなかったのだ。


『えーっ、何だそれ。もっと遊べばいいのに』

『……そ、そうかな…』

『だって、休日も勉強ばっかなんだろ?バイトとかサークルは?学校で彼女出来ないんなら、合コンとか行けばいいじゃん』

『い、いやっ…。そういうチャラチャラしたのはちょっと…』

『でも、じゃあいつ作るんだよ』

付き合うのなら、本当に好きな人と付き合いたいんだ、とか何とかモゴモゴ言ってるのを見て、俺はフッと笑った。

『せっかく社会に出る前の遊べる期間なのに、せかせか勉強だけって…。何か、可哀想な生活送ってんのな』


俺の失礼な発言に。
藤村が岩のように固まるのを、俺は気付いていたというのに。あいつが怒らない優しい性格なのをいいことに、気付いていない振りをして、当事はのんきに煙草を吹かしていたのだった。








「それが今や、売れっ子漫画家なんだもんな…」


俺は、『未知の敵・ハンギョロドン』という人気連載の、華やかなカラー絵を見下ろしながら、そう独りごちた。
藤村が描く人気SFアクションで、今や彼の代表作品だ。
どこにでもいるちょっぴりドジなアメリカンティーンのジョージが主人公で、笑顔がチャーミングなキャサリンが彼を支えるヒロイン。クールなライバルのアレックス、ダンディな上官スティーブンらと一緒に、宇宙人が産み出した高い知能を持つ半魚人と戦って地球を守りぬく…という壮大なストーリーで、今度アニメ化もされると大々的に宣伝文句が踊っていた。
弟が特に好きだと言っていたキャラを確認する。


そのコミック雑誌とビール、煙草とガムだけ買って、誰もいない家に帰るためにコンビニを跡にした。

あれから、藤村とは会っていなかった。
その際に連絡先も交換していない。

本当に、皮肉なもんだと思う。
俺が笑ってたその間に、あいつは着実に実力を付け、今の地位を築き、俺は反対に見えない出口を求めて彷徨うような生活を送ることになったのだから。














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「先生、皆、ご飯出来ましたよ」


いい匂いが部屋に充満し、アシスタントの女の子が作った玉子粥を食べるために、俺は数時間ぶりに作業机から立ち上がる。



「たづっちゃん、いつもごめんね。なるべく自炊しようとは思ってるんだけど」


「本当ですよー。いっつもコンビニ弁当じゃ体持ちませんからね。今回は特別です」


今回は特別、といいながら、作業が行き詰まった時はこうやって4名全員分の軽食をたまに作ってくれるのだ。
俺が以前、過労と運動不足と偏食などが祟って目の前で倒れたことがあったからだろうが。
もういい年齢なんだから、ちゃんとしようちゃんとしようとは思いつつ、アシさんの気遣いに感謝する。

「うわー、久しぶりにまともに人が作ったもの食べる」

「先輩、そんなんだから倒れるんですよ」

「美味しい〜。たづっちゃんありがとう」


専門学校時代の唯一の友人にして後輩、そして、その後応募してきた二人の女の子。

俺を入れて、男二人女の子二人の計四名。
掻き込むように、目の前のご飯にかぶり付く。まだまだ山場はこれからだ。
これが、今の俺の戦場にして、小さな城だった。




「川野さん、ここベタお願いね。あと表情はもう少し邪悪な感じで」

「はい」

「先生の描く悪役の女って、いっつも牙が生えて目が垂れてるよねぇ」

「分かる。でも俺今回の悪役らは好きだわ。こいつとか、卑屈で変態なところが先輩にそっくりで、何か見てたら愛しくなっちゃうっていうか…」

「はいそこ二人ムダ口叩かない。減給すっぞ」

今回は物語の見所で、敵の地下帝国の女帝とその子分にしてスパイが丁度自らを盾に倒されるシーンだ。作画の指示にも力が入る。
あの俺が、外で働いたこともなく彼女どころかろくに女子とも話せなかった俺が、ボロい借家と言えども今や都心の一等地に自宅兼事務所を構え、女の子にも臆せずバリバリ指示を出し。
時給制とは言えアシスタントに給料も出し、人気連載を持つ看板作家の一人としてやっていけている。
自分でも、未だに信じられないと思う。
過労で倒れようが何だろうが、今のこの状況が、俺は幸福だった。





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昔から、人と喋るのが苦手だった。
絵を描くことだけ、物語に没頭することだけが好きで、どうしても漫画やイラストに関係する仕事に就きたかった。
自分は普通に社会でやっていくには苦労するタイプであろうということも、薄々と分かっていた。





長男なんだから農家を継いでほしいという両親とは散々ケンカして、都心にある漫画イラスト系の専門学校に進学した。
そもそも、本来は親としては農業科のある高校に進んで欲しかったみたいなのだが、このままでは本当に自分が農家を継がされる気がして、普通科の高校でなければ畑は継がない、家を出ていくと泣きわめいたのだ。


そして、高校卒業後も何とか、農業科のある大学へと行かずに済んだ。


それこそ全く畑違いの、農業のの字にかすりもしない専門学校への進学に渋る両親を説得出来たのは、意外にも、今も都心で働く姉のおかげだった。


姉は昔から自分とは違い、賢く、美しく、そして自分よりも両親から信頼されていたと思う。
押し付ける訳でもなく、本当に、この家の長子、後継ぎは、自分ではなく姉だと心から思うほどだ。

「本当に子どものことを想うなら、親なら子どもの望む進路を応援して、お金を出してあげるべきだと思う」


卒業後に家を出て都会で働きはじめてからは、すっかり垢抜けて綺麗になった姉が、実家に帰ってきたときにキッパリとそう両親に言ってくれたのだった。
姉の言葉に、そもそも農家の男に進学なんて必要ないんだ、高校を卒業させてあげただけでも充分なんだと言い張っていた父親も、納得してくれた。


「でもおまえ、こいつが漫画家になんてなれると思うか?」

「健一の好きにさせてあげたらいいじゃないの」

「…まっ、若いときだけは都会で遊ぶのもいいだろうが。ただ、ダメだった時は、嫁さん貰って後を継ぐんだぞ」

「健一、その時は私がお見合い持ってきてあげるからね。それか、お姉ちゃんのお友だちでいい子がいたら紹介してあげてほしいわぁ。この子はそうしないとモテないだろうし…」

「農家の青年会に入ったら、俺が探して来てやる!登録すれば声もかかる」


最後まで散々な言われ様だった。
この何も知らない、分かろうともしないジジイとババアを絶対に見返してやるんだ、と、心の中で固く誓った瞬間でもあった。
そして、だからこそ、姉には今も頭が上がらず、感謝している。






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何とか修羅場を乗り越え、つかの間の安息を噛み締めていた時に、それは訪れた。
翌々日、原稿を仕上げたあとにアシさんも編集さんも帰り去り、自宅で惰眠を貪ったあとに一人のびのびとゲームに興じていたときだった。


普段は編集かアシさん達からしか連絡が来ない携帯が鳴り始め、ろくに確認もせずに、配達か何かかな、と、見知らぬ番号が示された携帯を手に取った。



「はい、藤村です」

「…藤村、で、いいのか?」

「…え……」

「久しぶり」




実に何年かぶりとなる高校の同級生の、戸惑ったような少し低い声が、俺の脳裏を突き抜けたのだった。












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まさか本当に出るとは思わなかった、と、その旧友、成海辰輝は、そう呟く。
急な電話に慌てながら、俺は何とか姿勢を正した。
本当に久々だった。
最後に会ったのは、専門学校を卒業する歳だった。だから…


「5年ぶりだな。いやそれ以上か」


フッと電話の向こうで成海が笑うのが分かる。
相変わらずだと急に懐かしく感じた。
笑う時だけでなく、驚いた時にも、いつも皮肉っぽく微笑むのだ。



俺の実家に、旧友だと電話したら簡単に番号を教えてもらえたとのことだった。
その事実に、怖い時代なのに、と、内心背筋がゾッとする。

「俺がおばちゃんと面識があったから教えてもらえたんだと思う。あんま怒らないでやってな」

「う、うん…」

「あと、俺もそんな、番号をSNSで晒したりとかはしないから安心してくれ」

実は心配していた事実にギクリとしながら、俺は、そんな心配してないよとぎこちなく笑った。


「しっかし、まさかおまえがこんな出世するなんてな〜。今や有名人だもんな。すごいよ、本当に」


「いや、そんな…。でも、ありがとう」


何なんだ、何の用で、と混乱しながら何とか会話を続けると、あのさぁ、と、言いにくそうに成海がポツリと、


「久しぶりに会って話さないか?近況も聞きたいし。あと、弟がファンで…その……サイン、とか……」





なるほど、と、納得がいった。


だけど、いくら昔の友人でも、今の俺にそんな暇はない。
それに、いちいちそんなことをしてたら、キリがなくなる。
サインなんてすぐ晒されていくらでも売られそうだし。






断ろう。





そう、思ったのに。



「い、いいよ。俺も久しぶりに話したいし」




気が付けば俺は、そう快諾していた。













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あれから結局、食事でも喫茶店でもなく、俺の自宅に来てもらうことになった。


俺が〆切明けで疲れきっており、どうしても外出が億劫だったのと、奥の作業場は散乱しているがリビングは客人を呼べる程度には整っているからだった。(ちなみに、これもアシの皆に片付けを手伝ってもらった結果である)



久しぶりに会う成海は変わっておらず、しかし年齢は重ねており、相変わらずどこか影のある男だと思った。
いつもそうだったが、久しぶりに再会した今も、何となく瞳が沈んでるように感じたのだ。




「変わってないな」

「成海こそ…」

「そう?俺は老けたと思うけど。藤村は童顔だから若く見えて羨ましいよ」



久しぶりの会話をぽつりぽつりと楽しむ。
地元の数少ない友人たちにしか、漫画家としてデビューしたとは言っていなかった。
学生時代にろくな思い出がなかったからだ。


滅多に出さないコーヒーを飲みつつ、伏せられた旧友の睫毛を盗み見しながら。
俺の胸の中で急速に、郷里での思い出が思い起こされていた。









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冴えない、モテない、言い返せない。

それが俺の青春時代だった。



親からは、農家の長男のくせになよなよしいとよく怒られ、家庭では理解のある姉だけが数少ない味方だった。
学校での俺の存在は空気だった。
心の中ではいつでも敵をなぎ倒し、魔法や科学のおかげで空さえ自由に飛べるのに。
実際には、いつも俺に雑用を押し付けるクラスのボス女子や、勉強もスポーツも出来ない俺を鬱陶しがる傲慢な担任に文句一つ言えなかった。
俺はひたすら空想に耽り、好きな絵に没頭して、卒業までの我慢だとクラスでは自分の存在を押しころした。




だからこそ、夢だけが。
夢と憧れだけが、俺の支えだった。
イラストと物語だけが、俺の拠り所であり味方だった。






そんな俺を、この旧友の成海は、一回もバカにしなかった。


決して不良ではないのだが、噂では家庭がゴタゴタしてるとかでたまに授業に遅れて来ることがあり、出席はしても落書きばかりして成績の悪かった俺と並んで作文を書かされたことがあった。
俺はそんなときでさえ、時間が来るまで裏にキャラクターを落書きしていたのだが、それを見ておかしそうに微笑んで、


『本当に好きなんだな、藤村』


『授業中も絵ばっか描いてるから』


そうして、もう少し敵のキャラを格好よくした方がよくない、と皮肉っぽく笑って、俺と一緒にイラスト描きに興じたのだった。



今思えば、その時間は、楽しいものだったと思う。





その後、俺は何とか高校を卒業し、漫画アニメ・イラスト系の専門学校に進学した。

その学校は都心にあり、漫画家やイラストレーター、アニメーターだけでなく、声優やゲームクリエイターの養成も行っている大型の漫画アニメ系の総合学院だった。
俺が在学中はなかったが、今では2.5次元俳優やVチューバーの育成コースもあるようで(ちなみにそこのパンフレットに俺は卒業生として堂々と載ってしまっている)、入学前は、俺もここで同好の友達や、可愛い彼女が出来るかなぁ、などと甘い夢を抱いていたものだった。

実際は2年間もいたのに、友達もほとんど出来ず、彼女に至っては全く出来ずと夢は儚く打ち砕かれたんだけど。






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「藤村?」




俺はハッと回想から意識を取り戻した。目の前の成海に不審に思われないように、何でもないと何とか笑って誤魔化す。

全く、皮肉なもんだと思った。
あんなにいい思い出がない専門学校も地元の学校も、今では、俺を卒業生で一番の出世頭だ、我らが地元の誇りだと、体よく持ち上げるんだから…。


「成海の言っていたこと、当たってたよ」


俺は笑いながらそう呟いた。


地元の高校を卒業後にたった一度、丁度こいつと再会したときは確か、専門学校卒業前に持ち込んだ出版社から俺の渾身の力作である『謎の地底人ズ・エックス』が、敵のキャラデザがダサいだの話が支離滅裂で意味分からんだの、ボロクソ言われて傷心していたときだった。


「編集さんと話し合って、敵をカッコよくデザインし直したんだ。主人公の武器や話の構想も。そうしたら、当たった」


「へぇー…」


リビングにコーヒーの煙が立ち籠った。
俺は振り切るように立ち上がる。

「なぁ成海、あんときのお礼じゃないけど…水素水って、興味ある?余ってるから、要るなら持って帰っていいよ」


「え?」


「専門学校時代の知り合いがこの前来て、営業されてさ。買っちゃった」

いそいそと棚から水素水のボトルを取り出す俺を、旧友がポカンと眺めるのが背中からも伝わった。







二度目の連載で成功して、名が売れてからは、こんなことばかりだった。


あれだけ俺に期待をせず、心配していた両親も、今では地元で近所の人に自慢してるらしく、結局は筒抜けだ。
やれ車だの、保険だの、健康食品の定期便だの…。
昔ろくに話さなかった同級生から、営業電話や訪問が続いた。
加えてこの前のウォーターサーバーだ。
この前、この作業場兼自宅にセールスマンとして押し掛けてきたのは、専門学校時代の同級生だったのだ。

そのセールスマン…鹿山さんは、高校卒業後2年間フリーターをした後に、専門学校に入学してきた歳上のクラスメイトだった。絵柄が華やかで、本人も明るく、歳上ということもありクラスの中心人物だった。講師からもお前はどんどん持ち込め、きっとデビュー出来るはずだと御墨付を受けるほどの人物だった。友達も多くて、同じ漫画家志望でもこうも違うかとその時は思い知らされたものだ。

その彼が、声優科の田中芽衣子さんと卒業間近にデキ婚したときは、そんなことがあるのかと俺も少し驚いたけど。

なんで俺がその子を知っているのかというと、卒業前の時点で既にネット上でアイドル的な人気を博していた声優の卵だったからだ(声優時の愛称はめむりん)。


『いや〜、あんときは俺も驚いてさぁ』


その後、本人からの話によると、鹿山さんは全く違う今の職種に転職、田中さんはネットで活動を続けつつ、今では立派に三児の母をこなしているということだった。


『田中さん、可愛かったですもんね…』

『当時はめむりんのファンから罵倒のメールとか届いて、マジで焦ったわ!皆には黙っててって釘指しといたんだけどな〜』


結局、口止めしたところであんだけの生徒数だ。すぐに情報が行き渡り、誰かがめむりんは〇〇の専門学生で、最近同級生とデキ婚したよとネットに書き込んで、すぐにバレて当時のファンは大荒れしたということだった。


『でも、家族っていいもんだよ。俺もまぁ〜いい加減に生きてきたけど、やっと覚悟が決まったもんな。生きる目標ってやつ?子どもも可愛いしさ。今でも副業でイラスト描いて小遣い稼ぎもしてるし』


『それは…良かったですね』


『うんうん。で、藤村…いや、富士鷹先生よ』


鹿山さんが、ニッコリと笑う。


『アシスタントの皆さんためにも、健康って大切だと思わない?健康な体っていうのは、やっぱり水から作られるってね。人間の体を構成する基本だから、水っていうのは』


『……えっと…。』


『今なら同窓生のよしみで、特別に水素水セットもプレゼント!!』







何で俺は、話を聞いてしまったんだろう。
そしてなんで、ろくに親交もなかった人に対して、バシッと断れないんだろう。



そう思いつつ、気が付けば、あれよあれよと契約書にサインをしていた。














--------------------------------





「おまえ、それ、大丈夫なの?」


黙って話を聞いていた成海が、訝しげに俺を見つめるのが痛いほど伝わる。
その視線が痛くて、俺は思わず目を逸らした。


「大丈夫だよ、丁度ウォーターサーバー欲しいと思ってたんだよね。今ではアシさん達からも好評だし。健康な体は水分からって。40万と月々5千円で健康が買えるっていうんなら、安いもんだよ、今どき」


「……」


「編集さんも肌が綺麗になったって大喜び。はい、これ」




紙袋に入れた水素水ボトルを押し付けると、目の前の旧友は、小さく溜め息を付きながらも受け取ってくれる。

「なるほどね…。」

ボソッと成海が呟いた。


「本当に稼いでるんだな、おまえ。ご実家もリフォームするみたいだし」


「あ〜…、あれは、バカだと思うよ。金がかかったってずっと文句言われてたから、専門学校でかかった学費をこの前一気に返したんだよ。そしたら、この金でリフォームするとか言い出して」


「フーン…」


「せっかくなんだから老後資金に貯めとけばいいのに、全く」


そこで成海が顔を上げた。


「それなら…」







「実は俺も、丁度今、金に困ってんだよな」




成海の声色が変わった。
俺はぼんやりと、目の前の顔を見上げる。


そこには、値踏みするような目で俺を見つめる、かつての旧友の顔があった。
瞳がヘビのように光ったように感じた。





俺は、逃げ場を失った小動物のように、友人の顔を見つめ返すしかなかった。
















-----------------------------------









「本当にごめんな、すぐ返すから」


「…ううん」


いくら…?と恐る恐る聞けば、10とか…と、しどろもどろに成海は答えた。

俺は立ち上がり、滅多に開かない財布を覗く。そんなには入っていなかったが、数枚の万札は確認出来た。


「…はい、これ」




実は、何とか大学は卒業したが、新卒で就職出来ずに職を転々としていて。

実家にも顔を出せず、仕事は続かずにろくに貯金も出来てない。
少し、借金も貯まっていて、業者から借りるのはちょっと…。

でも、今度こそ頑張ろうって思ってるんだ。
家賃を払うのもままならない日々だけど。
そのための資金にしたい。


再就職出来たら、必ず返すから。
どうかその時まで待っていて欲しい。





かつての旧友の言い分はこうだった。



ついに商品さえ介在しなくなったな、と、俺は内心嘲笑った。


直接お金を貸して、だってさ。
これが目的だったのかと思った。

けど、心のどこかでストンと腑に落ちてもいた。


名が知れてから、久しぶりに俺に会いたいだなんて言ってくる奴らは、皆こんなんばっかりだ。







それでも。






「分かった」




あれから何度もありがとう、ありがとうと謝りながら、静かに成海は部屋を跡にした。

そう言えばサインは?と聞けば、一瞬気まずそうな顔をして、だが何かを決心したように、重ね重ね申し訳ないが、一枚だけ欲しいと言うので書いてやってから、この家から見送った。



念のためラインの交換もしたが、こっちが催促した途端、ブロックされたら終わりだなぁと思った。電話番号も、変更したらそれで終わりだな、と。










--------------------




「何でお金なんか貸したんですかっ!」



あれから丁度成海と入れ違いで、アシのたづっちゃん達が来て、お客さんなんて珍しいですね、誰ですかと質問攻めされたので、あれよあれよと答えていたら当然ながら憤慨された。


普段は、おんなじ女子と平和に、やっぱり先生の描く作品は最高です、アレックスとジョージが尊くて〜だとか、川野ちゃんはスティーブン受け派だから、せっかく同じアシ同士なのに話が合わなくてツラいんですよぉ〜とか、ヘラヘラと俺に話してくるあの彼女とは同一人物とは思えないほどの剣幕だった(アシスタントなのに、作者本人である俺に平気でこういうことを言ってくる強い子でもある)。


「どうして!?私なら、貸さない。そんな今までろくに連絡も寄越さなかった奴になんか!私なら貸さない!」


「た、たづっちゃん…」


「川野ちゃんもそう思うでしょ!?今からでも警察に連絡した方がいいんじゃないですかっ。先生もさすがに警戒心が足りませんよ!有り得ない!」


「おい、いい加減に落ち着け。口の利き方」


この中では専門学校時代からの付き合いで、一番アシ歴も長い俺の後輩でもある草場にそう諭されて、怒りに震えていた目の前の女の子は、やっと少し落ち着いたようだった。
しかし、それでも悔しそうに唇を噛む。



「この前も変な水買わされて…。いい加減にして下さい。先生が騙されてるの見るの、私達もツラいです。」


「……うん、ごめんね。でもあなたには分からないよ」


思わずそう口が滑る。しまった、と、こういう時に全く気が利かない自分を内心呪った。驚いたたづっちゃんの大きな瞳が、みるみる涙で潤んでいくのが分かる。彼女は、いきなり現れた同級生から金を巻き上げられた俺を心配して、正しいことを言ってくれているのに。まるで俺が叱りつけたみたいになってしまって。
草場が、この先輩は…と、俺に呆れているのが分かった。


「…先輩、今日はどうしますか?」


たづっちゃんに寄り添った川野さんも不安そうに俺を見やる。今日はもう、作業どころではない気がした。一人になりたかった。
プロとして失格だとは重々思ったが、今日は俺一人で進めるから、明日また来てくれと、結局三人を追い返す形になる。


自己嫌悪感に包まれながら、ガランとなった誰もいない作業室を眺めた。



「…あなた達には分からんよ」


それでも、俺はそう呟いていた。




高校時代の何てことはない、もうあっちは覚えてもいないであろう思い出。










いつも教室の隅で息を潜めていたけど、それでも、たまにその平穏も脅かされていた。
隣の席がよりによって苦手なヤンキーで、その彼女であるボス女子が、いつも俺の席を陣取っていたのだ。
その日もデカい尻を俺の机の上に乗せて、これまた俺の席に近い彼女の友達(本人も含めて皆化粧が濃く、スカートも短い)とゲラゲラ大声で笑い転げていた。

机の横に鞄をさげているのに…。

帰宅時間、近付きも出来ない俺は、そう困って立ち尽くす。


「ねー、厚司遅くない?まだ待ってていい?この席って誰だっけー」


くるくると綺麗に巻いた髪を弄びながら、そのボス女子は俺の席を叩く。
ニヤニヤ笑うその口から、本人的にはチャームポイントらしい八重歯が覗くが、俺にはどうしても醜く思えて、まるで牙を持つ狂暴な獣みたいで、思わずゾッと後ずさる。


「えーっと、誰だっけ。あの黒縁眼鏡の…藤ナントカ…」


仲間の女子が人の名前も把握せずに唸る。


「あー。藤咲眼鏡くんね」





「ならいっか。お借りしまーす」


「マミたんひどーっ」


そう言って、垂れた目をさらに愉快そうに垂れさせて、キャハハハーッと仲間たちと笑い上げながら、また人の机にいつまでも居座るのだった。



(ならって何だよ。俺ならいいって)




そう思いながらも、足を動かせない。

その時だった。


教室のドアに隠れていた俺の後ろから、彼が現れたのは。


ずんずんと距離を詰め、何だ何だと鬱陶しそうに見てくるボス女子軍団にも負けず、「どけよ」と言って、俺の鞄を取ってきてくれたのだ。


「何あいつー」

「気味悪っ」


ボス女子どもは、普段学校を休みがちで、他のクラスメイトには寡黙な成海を不気味がっていたが、それでも、お前達の方がよっぽど不気味だと、俺は思った。
そして興が覚めたのか、その後、ボス女子軍団は教室を去っていた。




「ありがとう…。」


情けない。描く物語の中では、いつでも強くて自由な無敵の主人公なのに。


俺は怖さと恥ずかしさで泣きそうになりながら謝ったが、成海は、気にするな、と、あの皮肉っぽい笑顔で、笑ってくれたのだった。



クラスでも居場所がない俺を、あいつはそう言えば、一度も否定しなかった。








(藤村は、ちゃんと目標を持っていて偉いよな。)



(俺なんか、何も目標を持たずにここまで来たから。)



そう言えば高校時代も、本当は親父の言う通りに大学なんか行きたくないんだ、と、そう口を滑らせていたなと思いながら、その台詞を聞いていた。




「あのときは、失礼なことを言ってごめん。おまえが羨ましくて…」


コーヒーを持つ手を震わせながら、成海はそう俺に呟いた。



本人だけでなく、クラスメイトや母親から、何となく、成海の家庭の事情は聞いていた。


あいつん家からは、いつも怒鳴り声が聞こえると。
父親の女出入りが激しく、その度に母親が荒れて、激しく喧嘩した後に成海や弟と母親で家出したりだとか。
親父さんが帰らない日が続き、すっかりやつれた母親が荒れて暴れ始めると、成海が身一つで弟だけ連れて家を飛び出し街を彷徨うこともあったみたいだった。
親父さんの放蕩と不安定な母親、両親の不仲は、ご近所では有名な話だとのことだった。


あんた達さえいなければ、と、泣かれて責任を押し付けられるのが一番ツラいと、一回だけそう溢していたこともあった。



なので、「でも最近はこれでも落ち着いた方なんだ」と、少し嬉しそうに話す姿に、俺も救われる思いだったから。




大学卒業後にろくに仕事もせずに、フラフラしているとも、噂で聞いていた。



それが、それだけが成海なりの復讐であるなら、俺は止めないと、そう思った。





だから。




「貸したんじゃない、あげたんだ」




誰もいない部屋で、俺はそう呟く。
分かってもらえなくてもいいと思った。
お金を借りるときだけ連絡してくるなんて、そんなのは友達とは言えない、友達なんかじゃない、と、そう皆に言われたとしても。



一人でぼんやりと佇む孤独な俺の部屋に、燃えるように赤い西日が今日も差し掛かり始めていた。
悲しいのか嬉しいのか、よく分からないまま、また夕方が始まろうとしていた。












20190720

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