My Turn

□雪のかおり
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 答えなくてもいい。
 この人は少しおかしい。だから俺はわざわざ教える必要はない。
 でも、俺を見下ろすその顔が真剣でその眼差しの中に揺れる何かが見えて、悪いことをしているのは俺の方じゃないかと狼狽する。

「宮嶋」

「ミヤジマ君。ファーストネームは?」

 晴臣(はるおみ)。
 口に出さずに心の中で俺は答える。どうしても言いたくなかった。のどを通る自分の声が嫌なもののように感じた。この名前を嫌いだったつもりはないけど、この瞬間何か得体の知れないものになった。

「そんなに嫌わないで、君の名前よ」

 促すように言われても俺は口を開かなかった。両手を握りしめ、この人が諦めるのを待つ。一体どのくらい待てばいいのかと想像し始めた頭を振って、俺はゆっくり息をついた。

「そうね、無理矢理はよくないか。また今度ね。ハルミ」

 思いの外、彼女は諦めるのが早かった。助かったと肩から力を抜くと俺は呼ばれた。

「ハルオミ! やっぱり君」

 断じて言ってない。ほんの少しも口にしてない俺の名前。それを背中を向けて歩き出したその人が言った。
 透き通る綺麗な声で、きっと赤いルージュの濡れた唇が動いて、俺の名前を奏でた。いや、読んだ。何かに書いてあったものを目で見て読むように、ハ、ル、オ、ミ、とゆっくり口ずさんだ。

 でも彼女は俺から名前を聞き出したくてあんなに問い詰めたにもかかわらず、名前を知った後、振り向きもせずそのまま去って行った。
 驚きに体の自由を奪われた俺は、何が起きたのかよくわからないままその背中を見送ることしかできなかった。

 彼女は一体誰なんだ。学生ではなさそうだし、何の用で大学の構内にいたのかもよくわからない。
 俺に名前を聞いてきたくせに自分では名乗らなかった失礼な女(ひと)。あんな目立つ綺麗な顔立ちの人なら、どこかで会っていれば記憶に残りそうなものだけど、俺の記憶の中には刻まれた様子がない。

 人違いのはずが、そうじゃないような反応。
 名前はハルミじゃないのに、晴臣という名を聞いて大きな声を上げた。

『やっぱり君』

 その前に、口に出していない俺の名前をどうやって彼女は知ったんだ。
 どこかに名前でも書いてあったかと身なりやバッグを確認したけれど、どこにも名前がわかるようなものは持っていなかった。
 この謎を解くためにもう一度彼女に会いたいとも思ったけれど、関わると面倒なことになりそうで、俺はヘッドホンを付け直し、ボリュームを上げて現実から逃避することにした。

 考えても仕方がない。逃げるが勝ちさ。
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