My Turn
□小さきものよ「一章:一ノ瀬」
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五番線の前の柱に背を預けて、改札を眺めていた一ノ瀬の視界に彼女が現れたのは七時を過ぎた頃だった。
彼女を見過ごした可能性を考え不安な時間を二、三時間味わっていた一ノ瀬の顔には笑みが溢れていた。待ち合わせをしているわけではないのに「待たせてごめん」と小走りに寄ってくるかもしれないと彼女の姿、行動をまばたきもせずに見つめた。
一ノ瀬の横を通り過ぎていく彼女は「待たせてごめん」と言ってはにかむこともなく、一ノ瀬を視界に入れることもなく前だけを向いて歩いていた。
いつもに増して青白い顔をし、疲れた目には光がなく、歩くために動かす足さえ億劫そうな、体全体が彼女のものでないような、そんな違和感があった。体の調子が悪いのだろうか。
一ノ瀬はポケットに手を入れると彼女の近くにいられるようにその小さな背中について歩いた。
彼女の降りる駅の改札へと続く階段近くに留まると思われる車両のドア前で立ち止まった力のない肩が小さく震えているように見えた。
限られた椅子に座るため我先にと彼女を押しのけていった中年の女に、眉間にしわを寄せ拳を握り締めた。心配した一ノ瀬が振り向いて見た彼女の横顔は、まるで死人のようだった。
仕事帰りのサラリーマンが見る新聞のめくる音やウォークマンの音漏れに全く気にする様子のないOL、学生服をきた若者たちの大きな声などがまざり、香水やデオドラントスプレーの香りと人独特の匂い、クーラーの埃臭さが重なり合って帰宅ラッシュの車両の中はまるで牢屋のようだった。
電車が進むにしたがって手すりを掴む彼女の白い手から力がなくなっていくようだった。頬の色が白い肌というより色のない半透明に見え、下を向いている彼女の表情は一ノ瀬からはよく読み取れないが体の調子が悪いのは見て取れた。
息苦しそうに肩で息をしている姿を見ていられなくなった一ノ瀬は、彼女に話し掛けることもできなかった自分の行動力のなさに嘆いていた数日前とは見違えるように軽くなった頭と体をスムーズに動かし、人の合間をぬって彼女のそばに行くと小さな声で言った。
「ここで一度降りた方がいい」
まぶたを動かすことも億劫そうな彼女は、話しかけた一ノ瀬の顔を見上げることもできずに言われるまま牢獄のような電車が停まった駅に降りた。一ノ瀬はその細い手首を持ち、震える肩を抱いて、構内のベンチに座らせた。
「すみません。ありがとうございました」
彼女のか弱い声が聞こえた。
つらそうな顔色のままだが、精一杯感謝の気持ちを伝えようと声を張っている彼女を見てその言葉に、その声に、目頭が熱くなった。
念願の一ノ瀬自身に対しての言葉。聞きたかった彼女の声。
口を動かして返事をすることができなかった一ノ瀬は大きく頷いた。
「もう大丈夫ですから」
青ざめた顔色はよくはなっていなかった。このまま彼女を置き去りになんてできるわけがない。
「少し休んだら一人で帰れます」そう言葉をつなげる彼女は白い手で膝を握って少し表情を緩めた。うるんだ瞳が綺麗だった。熱くなった顔を見られなかったか心配だった。視線を泳がせて誤魔化すように乱暴に言い放つ。
「今にもぶっ倒れそうな顔してる子を一人置いて帰れねぇし」
言ってすぐに自分の口調に嫌気がさした一ノ瀬は、貧乏ゆすりをしている自分の足先にも愕然として立ちあがった。
「水買ってくる」
少し離れた場所にある自動販売機へと歩く一ノ瀬の肩が落ち込んでいた。