My Turn
□小さきものよ「一章:一ノ瀬」
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ある寒さが強くなり始めた冬の夜、学校帰りに自宅の最寄りの駅で夏生の姿を捉えた。改札前の壁に背をもたれ掛け、下を向いている。凍えそうな寒さに身を縮めて帰りを急ぐ人々の合間にその大きな体がちらついた。
「俺を待ってたんだよね?」
近づいてそう話し掛けると、学ラン姿の夏生はびっくりしたように顔を上げた。その表情は青白く石のように固かった。
「今日、雪絵学校休んだ?」
今朝の通学電車では会うことができなかったが、度々あることなので今までも深く詮索しなかった。一日休むと次の日には笑顔の雪絵が見られるのだ。彼女のすべてが知りたいが無理強いはしたくない。
「風邪でも引いた?」
一ノ瀬が三度目の質問を投げかけても自分以外の声は聞けなかった。首を振る夏生の方が病人のような顔をしている。改札を出口へと歩き出した。
「兄貴が具合い悪そうだけど、どうした?」
冷たい空気が舞う階段で夏生がやっと口を開いた。
「話があります」
一ノ瀬は軽く返事をして近くのファミリーレストランを指さした。「どこか店に入る?」と聞くと夏生はもう一度首を振った。
「外でいいです」
口元から白い息が流れ出た。
近くの公園に行くと夏生はベンチ前で足を止めた。ここで話そうということだろうか、一ノ瀬は寒さでかじかんだ両手を揉みながら腰を下ろした。
夏生はなぜか立ったまま、一ノ瀬の目の前で動かなかった。
不思議に思ってその顔を見上げると、歯を食いしばり苦痛に歪んだような表情の夏生がそこにいた。視線は合っていない。こちらを見ていないのだ。
「どうかした?何かあったの?」
ふいに心配になった。雪絵に何かあったのだろうか。夏生がこんな顔をするのは決まって雪絵のことだ。
「雪絵に何かあったのか?」
息を止めたのか夏生の口から白い煙が消えた。
「昨日、夜遅くにユキが帰ってきました。体が震えていて、動転して立っているのも大変そうで」
昨日の夜遅く?
「そのまま風呂場へ行ってしまったから、俺にはどうしようもできなかった。ドア越しに泣く声も聞こえてきたし、吐いているようだったし」
「昨日は用があるって早くに帰ったけど」
「あなたと一緒だったって!」
「何時に帰ってきたんだ?」
興奮状態で怒鳴る夏生に一ノ瀬はできるだけ静かに聞いた。
「終電ぎりぎりだと思います。十二時とか、そのくらい」
「七時にはうちを出た。その時間は俺と一緒にはいない」左右に振られる一ノ瀬の顔を青白い顔がのぞき込んでいた。
「あなたと一緒だったとユキが言ったんです」そんなはずはないと大きな体が揺れていた。
「風呂から出てきて雪絵と話した?」
一ノ瀬は冷静だった。相手が激しく感情に走っているからか、頭の中が冴えていた。なぜ雪絵は俺と一緒にいたと嘘をついたのか。
「少しだけ」
「何を?」促してあげないと言葉がつながらない。夏生はその大きな両手で顔を覆ってしまった。
「なんでもないって」小さな声だった。
「それだけ?」もう一度促す。
「――触るなと」
さわるな。
愛する兄夏生への拒絶だった。
信じられなかった。雪絵の夏生への気持ちは大きくて強固だ。その手を拒むわけはない。消え入りそうな声が言葉を紡いだ。
「両手首に傷が」
両手首? 母親の話を思い出す。両腕に包帯が巻かれていると。
「あなたがやったんじゃないんですか? 無理矢理雪絵を―」
覆っていた手を下ろした夏生は、敵意を持った目で一ノ瀬を見ていた。拳を握りしめ、怒りに全身を焼かれているようだった。
「俺じゃない」
怒りで熱く燃えてしまったその耳に届くようにはっきりと、ゆっくり口にした。
「俺じゃねぇよ。だって」
触れたことないんだ、雪絵の体に。その肌に。
人気のない公園のベンチのある場所だけ冷気が濃く深くなっているようだった。二人の吐く息がその場に漂って浮かんでいた。