My Turn
□小さきものよ「一章:一ノ瀬」
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車両に乗ってきた二人を見てほっと胸を撫ぜ下ろした。
「おはようございます」
夏生が笑顔で一ノ瀬に言った。雪絵はこちらを全く見ようとしなかった。「よう」と気にしている素振りを見せず軽く手を上げる。
「今日も暑いですね」とクーラーの効いた涼しい車両内で汗ばんだシャツをパタパタ揺らす夏生に朝練はどうしたのかと聞く。
「今日はお休みです」
「へぇ、夏って大会ないの?」部活をしている同級生は血気盛んに朝練に励んでいたはずだ。
「ええ、まあ」
夏生はあいまいにつぶやくと話題を変えた。その時の雪絵の怪訝な顔が一ノ瀬の視界に入った。夏の大会の話を切り上げ、期末テストへの不安を口にする夏生を放って「具合い大丈夫?」と雪絵に尋ねると目を合わせずに彼女は頷いた。
まだ怒ってるなぁと肩を落としてへこむことはなかった。ある程度覚悟していた反応だったわけで、一ノ瀬には心配なことが他にもあった。夏生がいる所で聞くこともできず、図体のわりに頼りなさそうな兄貴の会話に付き合うことにした。
終点の乗り換えの駅の名が車内に放送される頃、先日空手経験者の友人と話した内容を思い出して焦って口を開いた。明日は朝練で夏生に会えないかもしれない。
「そうそう。中学で空手部だった友達が兄貴のこと知ってたよ。かなり強いって言ってたぜ」
「本当ですか?俺、そんな強くないですよ」夏生ははにかみながら額の汗を拭った。
「そんな下手に出るなって。一年だけど夏の大会もいい所までいけるはずだってよ。やっぱり大会あるんじゃん。頑張れよ、兄貴」
そう一ノ瀬が肩を叩くと、夏生は申し訳なさそうにその大きな体を縮めて言った。
「実は、夏の大会は出ないんです」すみませんと続けた夏生の何に対しての謝罪なのかわからない言葉をそのまま受け入れられずに一ノ瀬は生返事をした。
なんで?
「なんで?」
一ノ瀬が発しようと思っていた言葉を先に雪絵に言われたことで驚いて息を飲んだわけではなく、一番の理解者である双子の妹にも告げていない事柄が現実にあったことに、そして雪絵のその悲しそうな顔と自分の知らない間に双子の兄が決定したこと自体が信じられないというような歪みかすんだその声に、一ノ瀬は驚き、胸を締め付けられた。
「なんで出ないの?」
停車した車両の自動ドアが開き、通勤通学の人々がそそくさと降りていった。夏生もその波に乗って足を動かす。雪絵が兄を追い掛けて大股に歩く。一ノ瀬も続いた。
「なんで?なっちゃん」
「なんで出ないの?」
少し大きめの彼女の声が構内の一角に広がった。人波の中でこちらを向く顔がちらほらあった。
「ユキ。ここじゃなくて帰りに話そう」
夏生の声は落ち着いていた。
「帰りは何時頃?四時くらいでいい?」
「今日部活は?」
「ないよ」
「嘘。ないわけない。どうして嘘つくの?」
雪絵の泣き出しそうな顔がより一層引きつっていた。
「家のことをすべてユキ一人にやらせるのはよくない。俺も手伝うよ」
「私は平気。手伝ってもらわなくてもいいの」
「具合いも良くないのに、無理させられない」
「もう大丈夫」
細い手を伸ばして夏生の太い腕を握って揺らす。何度も。
「大丈夫。もう倒れたりしないから」
夏生は何も言わなかった。ただ自分の腕を握る小さな手を見ていた。
「無理なんてしてない」
雪絵の悲痛な訴えは聞き届けられなかった。首を横に振る夏生の意思は固かった。
「ダメだ。ユキを一人にはさせられない」
掴まれた手をゆっくりと優しく振り解きながら「先に行くよ」と口を動かすと背中を向けた。
「なっちゃん、待って」
雪絵の声は小さく、弱弱しく、その場に沈んでいった。蒸し暑い構内に、汗なのか涙なのか顔を濡らしたまま彼女は立ち尽くしていた。