Sour1

□深愛(しんあい)T
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 彼の長い腕が伸び、彼女の体を絡め取る。
 細い手首は手錠の輪のような大きな手の平に捕えられ、彼女は両腕の自由をなくした。
 抵抗することを諦め、背を広い胸に預け、吐息をついてから彼女は彼を見上げた。彼女より一回り大きい体の彼は、ある一点だけを見据えていて彼女を見ようとはしなかった。
 透き通った茶色の瞳の奥が寂しげに光っていた。



 マリン・チェダ。彼の名である。
 彼は旧ユーゴスラビア連邦共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナで生まれ育った。
 世界で最も綺麗な川と言われるウナ川の畔で薬草の研究をしていたマリン・チェダの両親は、ユーゴスラビア紛争の民族浄化に巻き込まれて命を落とし、まだ幼かったマリン・チェダとその兄弟は散り散りとなって故郷から逃げた。

 一時はイタリアまで逃亡していた彼だったが、紛争終結後故郷を目指し旅に出た。
 地中海を横断せず、スロベニア、クロアチア、ハンガリーと列車での大陸移動の長い旅の途中、足を踏み入れた小さな町バヤを流れるドナウ川でマリン・チェダは彼女イヴに出会う。
 バヤの中心を流れるドナウ川は故郷のウナ川へと続く河川であり、穏やかな流れでハンガリー大平原を貫流するその大河はローマ神話の河神ダーヌビウスの名の由来の通り、ヨーロッパの国々の国境となって争いを鎮めるように流れていた。

 彼にバヤに住むように勧めたのは、イヴだった。

 マリン・チェダには悲しい過去があり、故郷を想う心と自分の背負った使命を果たそうとする信念があった。
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