Cocktail

□ NO LIMIT.(4)
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 ソファから崩れ落ち、僕は床に転がった彼の腹の上に跨っていた。
 見下した彼の顔が頬を叩いたにもかかわらず、真っ青だった。
 そして、泣いていた。彼は唇を噛んで、むせび泣いていた。

「どうして俺は、君のすべてを手にできない? こんなに君を愛してるのに、君を抱けない? 一つになれない? なんでなんだ、なんで嫌がるんだ! なんで俺に与えてくれない? 君のすべてを捧げてくれない?」

 目をつぶる。
 彼が強くまぶたを閉じている。閉じた目元から涙が流れる。

「すべてを捨ててでも、俺を愛して欲しいのに!」

 彼の叫ぶようなその声と、僕のすべてを欲するその言葉は、僕に衝撃を与えた。
 そして、僕の心を貫いて僕からすべての力を奪った。


 彼が、僕から離れたのは、僕を欲しているから。
 彼が、僕を捨てたのは、僕の心と体のすべてを欲してしまうから。
 僕を、深く愛しているから。

 僕は力の入らない右手を彼の胸に置き、もう一方の手で嗚咽の出始めた自分の口を押さえる。
 苦しい。僕の知っている苦しみなんかより、ずっと苦しかった。
 愛しているのに、欲してはいけない。

「僕はゲイじゃない。君もゲイじゃないって言っていたよね」
 説得するように、僕は言う。

 僕は結婚している。妻がいて、息子がいる。
 僕はゲイじゃない。僕は男同士で体を求め合う行為をしたいとは思ってない。

「ああ、ゲイじゃないよ。でも、君を愛してるから、俺はゲイにでもなんでもなる」

 彼はもう泣いていなかった。
 真っ直ぐに僕を見上げ、決意を口にする。
 彼もゲイじゃない。でも、僕のすべては欲しい。それが彼の、僕の体を求める理由。

 彼は僕に向かってゆっくり手を差し出して、聞いたことのないほどの優しい声音で尋ねる。

「今だけでいい。今夜だけでいいんだ。今夜だけは君は俺のもの。俺は君のもの。それじゃダメかい?」


 あの日、あの夢のようなひととき、初めて二人きりで過ごしたあの時、僕が言った言葉だった。
 彼が僕から離れようとした時、僕が懇願したことだった。

『今日この時だけは、君は僕のもの。僕は君のもの。それじゃあ、ダメかい?』

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