Cocktail

□NO LIMIT.(3)
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 風邪を引いて仕事ができないと連絡をすると、「無理せずゆっくり休んでいい」と言われた。きっと僕の存在に困っていた部分もあっただろうから、僕は遠慮なく甘えることにした。

「少しの間、ここにいてもいいかい?」

 ベッドにいる僕に彼は困ったような笑顔を向ける。壊れ物でも触るように僕を慎重に扱っているのがわかって、僕は少しふて腐れている。
 それでも、彼がいてくれるのが嬉しくて僕は首を縦に動かす。

「本当かい? じゃあ、ここから仕事に通うよ」

「仕事、復帰したの?」

「ああ、何ヶ月か休んでしまったからね。仕事が溜まってるよ」

 手を上げた彼に応えて、僕もぎこちない笑みを見せた。

 たった数ヶ月で奥さんの死から立ち直れるわけはない。それでも彼は、前進する。悲しみや寂しさを飲み込んで、前へ進む。
 クラブの監督をシーズンの途中で辞任したりせず、短い休暇を取るだけにした彼は、復帰後の試合のため、対戦相手のビデオを観て研究し、作戦を練る。クラブチームの勝利のために働き続ける。

 誰よりも苦しいのは、僕よりも彼なんじゃないか。そう、僕は思い始めていた。

「でも!」
 一人、急に声を上げたら咳き込んでしまった。慌てて口元を手で覆う。

 苦しいなら、僕に助けを求めてもよかったじゃないか。僕なら力になれたかもしれないのに。
 僕を捨てたりしないで、僕の胸に飛び込んでくればよかったじゃないか。
 僕は彼を愛しているのに、愛さないなんてことできないのに、それを彼は知っているはずなのに、彼は僕を頼ったりしない。
 彼のためなら、僕は何でもできるのに。

 心の中で押し問答を繰り返しながら、僕はその日を過ごした。


 彼がこの別荘に来て数日が経っていた。僕の風邪は完治とまではいわないけど、大分良くなっていて、気晴らしに買い物に出かけた。
 もちろん、運転席に座っているのはドライバーのマルコだ。

「風邪を引いていたと聞きましたけど、お元気そうですね。以前より顔色もいい」

「そうかい? お酒をやめているからかな」

「それはよかった。何かいいことでもあったんですか?」

 林の間を抜けた通りの先、ほとんどない信号の中の一つに珍しく捕まって、マルコは顔を後部座席へ向けた。
 同じ名前である僕の息子に似ているわけじゃないけれど、くるくるの丸い目と色素の薄い髪がふわっと舞って無邪気な子供のようだった。自分のことのように嬉しそうに微笑むマルコ。

「今ね、僕一人じゃないんだ」

「誰か一緒に住んでるんですか?」

 笑みだけで返事を返して、僕は彼を思い浮かべる。
 一緒に住んでいる、という表現は正確じゃないけれど、なんか耳の中をいじられたようにくすぐったい。

「その人のおかげですね」

「うん、そうかな」

 遠い未来のことだと思っていた彼との二人の時間は、思いの外早くやってきた。
 でも、それが望んだ形で訪れたとは、到底言えない。
 僕は本当に苦しかったし、彼が僕の別荘に来た理由もいまだよくわからない。
 彼がまだ僕を捨てたままなのか、どういうつもりで、「少しの間」と言ったのか、それもわからない。

 それでも何もかも目をつぶって、彼との二人きりの時間を穏やかに過ごしたい。彼と僕のこと以外は何も考えずに、この素晴らしいひとときを楽しみたい。
 そう感じてしまっている僕は、何か大事なものから目を背けているのかもしれない。
 地位も名誉もお金も持っている僕。
 それを固く守ってきた今までの人生、制限のある生活や手本となれる言動、そのすべてをやり続けてきた日々の努力を、今の僕は忘れているのかもしれない。

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