Cocktail
□NO LIMIT.(1)
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「海岸沿いに知ってるビーチがあるんだ」
下げた車窓から入る冷たい風を顔面に受けて、夢から覚めたような感覚に陥った僕は、慌てて隣の運転席に視線を向けた。
いた。
夢じゃなかった。
ハンドルを握る彼がサングラス越しに僕を見た。
二人で乗るには大きすぎるバンは、エンジン音も立てずに真っ青な海を右手に大通りを東へと進む。
どこに行こうかと口にする必要も、どこに行きたいかと聞くこともない。彼は眉を上下に動かしただけですぐに前方へと向き直し、アクセルペダルを踏む。
なんてことだ。彼と僕が二人きりでこんなふうに時間を過ごすことができるなんて。そんなことができるとは思わなかった。
もっと先になると、もっと遠い未来のことかと思っていたのに。
「数時間くらいなら問題ないかな」
彼のつぶやきに頷いて答えた僕は今日のスケジュールを頭に描く。スポーツ誌のインタビューの後はボランティア関係の社内ミーティング、それからツアーディレクターとの電話会議が予定されていたはずだ。
僕がいなくちゃダメかな。少しくらい遅れてもいいかな。
彼といられることが嬉しくて、現実離れした出来事に有頂天になって、僕がしなければいけない大事なことを忘れてしまう。
口を結んで難しい顔をしていたのか、肩を叩かれた。もちろん、彼に。
「何か美味いものでも食べよう」
青空と同じ色の海はどこまでも広がっていて、僕の右側の視界を塞ぐ。そして反対側には彼がいて、たくましい腕がハンドルへと伸び、車内に流れるラジオの音楽に合わせて指がリズムを刻んで動く。緩やかなカーブを描く道のりに退屈して空いた左手があごの髭をいじるから、伸びかけの髭がぴょんと飛び出てしまった。
前方を見る彼の口元が少し緩んでいて、隣にいる僕の熱い視線を感じていることがわかった。
思わず僕も笑う。
彼と一緒にいられて嬉しい。こんな幸せなことはない。
その跳ねた髭も、微笑む唇も、何もかもお見通しの透き通った瞳も、こんな間近で見られるなんて夢のようだ。
すれ違う車に乗る人たちは気づくだろうか。
彼と僕がここにいることに、こうやって同じ車の運転席と助手席に並んで座っていることに、僕たちが今とても幸せなことに。
誰か、気づくだろうか。
冬のプライベートビーチはやっぱり人気がなく、地下の駐車場も薄暗くて安っぽいホテルのようだった。でもそのことで僕の浮き足立った気持ちは少しも鎮まることはなかった。
ドアを閉め、オートロックの音がコンクリートの天井に反射して響いたのと同時に軽い足取りで歩き出した彼の背中を追いかけて、僕も歩を進める。
何度かくるりと振り返って、僕がすぐ後ろにいることを確認する彼。その目が見たことのないほど優しくて、僕は自分の目の中に映る彼を取り出して抱きしめたくなる。
見上げる瞳の中で輝く情熱が僕に訴えかけるから、僕は声を出さずに応えた。
僕の言葉のない返事に、今度は彼が答える。立ち止まり、何も言わずに僕に向かって手を差し出した。
僕は彼の肩に手を置き、彼は僕の腰に腕を回す。
冬の海風は冷たいけれど、密着した僕たちの体は温かかった。
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