My Turn

□運命の人
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 唐突に、その瞬間はやってくる。
 俺はいつも通り震えながらその体を支えているだけで、何の役にも立たない。

 時間が止まったかのように動かない四肢。石のように固くなったジュンを抱いて発狂したくなるのを堪える。開いた目はどこか空虚を映し、微動だにしないまつ毛が風になびく。
 心を失ったからっぽの体は、俺の胸に置いていかれて悲しげに泣く。まぶたが動かないせいで眼球が悲鳴を上げて溢れた涙が死んだような青白い頬をつたった。
 息をしていないわけじゃない。死んでいるわけでもない。ただ、ここにあいつはいなくて、今あいつはどこか知らないところへ行っていて、俺と自分の体を置いて、どこか遠くへ行っているだけで、必ず帰ってくると信じることしかできない俺は、「泣きたいのはこっちだ」と口に手を当てて必死に耐えるだけ。

 新学期が始まった学校帰りの道端で、心のない人形を抱えて泣き出しそうな男が一人。
 それが俺。何もできずにただ待つ。主(あるじ)が帰ってくるのをただ待つ。

 力いっぱい細い体を抱いて澄んだ空を見上げると、真っ青のキャンバスに白い線が一本。空が真っ二つに割れて、俺の世界が壊れちまう。寒いのは嫌いなのに、ここから動けない俺は凍えて死んじまう。
 ジュンが帰ってこないなら、世界が壊れても、俺の心臓が止まっても、もうどうでもいいような気がした。

 しばらくして、空に浮かんでいた飛行機雲が薄くなって消えていった。笑っているように感じた枯れた葉の歩く音が止んだ頃、ジュンが俺の世界に帰ってきた。

 長い間息を止めていたかのように肩で大きく息を吸い込んで、固まっていた体が動き出す。
 深呼吸をした後、涙を拭こうともせずに濡れた頬を赤くしてジュンが言った。

「ねえ、運命って信じる?」


 母親に似すぎたジュン。母親の力を信じているジュン。

 たぶん、おふくろさんの入院がきっかけになったんだろうと思う。
 高校に入ってから時々おふくろさんと同じように夢や幻覚を見始めた。過去の出来事を目の当たりにしたり、見たことのない世界のことだったりして、始めは困惑していたジュンだったが、次第にそれが母親の見ていた世界だったと納得した。
 その時には、心の病が起こす幻覚や妄想ではないと、彼女ははっきり理解していた。


 帰ってくると必ず手の先を見る。
 十本の指先をじっと見つめて、ぎゅっと手を握る。それはジュンの癖なのだろうと俺は今まで聞いたりしなかった。だが、あまりにも強く両手を握りしめているもんだから、ふと口をついた。

「指先、寒いのか?」

 流れた涙を拭いながら俺を見上げたジュンが薄く笑う。

「感覚がないの。いつもそう。向こうに置いてきちゃった感じ」

 世界が壊れる音がした。脳内で作った音なのだとわかっちゃいるが、背すじの凍るような耳をつんざく音。
 俺の表情を読み取ったジュンが慌てて続けた。

「あ、でも少しずつ戻るよ」

 帰ろう、と言って何事もなかったかのように歩道を歩き始める。
 その背中をゆっくりと追いかけながら、もう一度空を見上げる。驚くほど高い空のかなたに小さな亀裂が見えたのは俺の気のせいか。
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