My Turn

□バイブル
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バイブル:その三

『sound』

 壊れた自転車を引きずって、この忙しい日常の最中、舌打ちと共に自宅近くの小さな自転車屋へ歩を進める。
 心踊る騒がしいサウンドを耳に響かせ、休日だというのに手帳に書かれた仕事を脳裏に浮かべ、頭痛を呼び込む。

 すぐ終わるはずの自転車の修理は、ちょうどよく入った先客によって数十分の待ちとなった。
 待合室などなく、居る場所も見出せない。
 一度家に帰るかと自転車屋の女主人に見送られ、ゆっくりと歩き出す。

 ふと空を見上げれば、秋晴れの真っ青の空。
 ふと路地の花壇を見てみれば、赤い彼岸花。
 ふと家並みを見てみれば、小さな団子屋ののぼり。

 
 耳の穴深くに埋め込んだ音を無造作に除き、一息つく。
 いつも歩かない住宅街を視界に捉え、いつも会わない人々と視線を合わせ、いつも素通りする公園に足を踏み入れる。

 心を穏やかにするはずのバラードもラブソングも、心を高揚させるはずのギターやドラムの音も、周りから遮断させるためのもの。

 明日明後日、一週間一ヶ月の目まぐるしいスケジュールに追われる毎日。
 自分と異なる人との付き合いに、眼を白黒する毎日。
 日々変わる環境に順応するため、自分を殺す毎日。
 心焦がれる人の言動に一喜一憂する毎日。
 迷い悩む自分の道に心かき乱される毎日。

 一人音の世界に入り浸り聴くサウンドは、周りから解き放たれ、自分から目を背け、煩わしい毎日から逃げるためのもの。

 ゆっくりとコンクリートを踏みしめる自分の足音が耳に心地よいリズムを刻む。
 わたあめの浮かぶ空は薄い水色で、灰色の雨雲が出番待ちをするようにうろついている。
 柔らかい秋風が木々の葉を揺らし、畑に植えられた野菜が陽に向かって手を伸ばす。
 工事中の建物からトンテンと音が鳴り、蝉の後を継いで鈴虫が鳴く。


 心臓に病が見つかったとしても、手作りの団子は美味しくて。
 明日の朝が今日と同様に早くても、仕事の量はいつも通りで。
 あの人が一緒にいてくれなくても、悲しみは涙を誘う。
 憂鬱な毎日が続くとしても、食後の一服の癒しに浸れる。

 世界は変わらない。
 何一つ、変わることなく季節が過ぎ去っていく。


 今、私の世界の音が聴こえる。
 これが今、聴くべきサウンドで、今感じるべき世界だ。
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