My Turn

□酔狂な魚 ツカイリュウ
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 空の見えない地下の空洞には外界よりも明るい光が溢れていた。
 立ち止まった足元を見ると黒く磨かれた靴が消えることを知らない蛍光灯を映していた。ぶつかった振動で後ろを振り向くと眉間にシワを寄せた不機嫌な顔が私を見上げた。聞こえるように大きく舌打ちをつくと大股で人混みに消えていった。

『私は誰だ?』

 シワのないスーツには高級ブランドのロゴが縫い付けてあった。皮のベルトには光るバックルが私の顔を逆さまに描いている。ズボンのポケットには財布らしきものがあったが、財布の中にあるべきものは何一つないようだ。カード入れに白いカードサイズの紙切れが一枚入っていたが、何も書かれていなかった。財布を脇に挟み、胸の内ポケットをまさぐると小さな物が指の先に触れたような気がした。注意深く取り出すとそれは小さな指輪だった。

 波に逆らわずに流れるまま足を動かしてみる。
 いたる所の頭上にある変化し続ける電光掲示板が右から左へ文字を流し、荒れる波を誘導しているようだった。あちこちにある改札は常に人が溢れていて、吐いたり飲み込んだりを繰り返していた。
 ビーという機械の怒る音に侵入を拒まれ、私は波から外れた。やはりまた不機嫌な顔が私の顔を興味なさそうに見やってから立ち去る。止まることを知らない波に少しでもブレーキをかけるものなら、つまはじきを食らうということだろう。

 重さを感じない財布を今一度出してみたが、私が何者なのか、その答えを教えてくれるものは何一つない。
 皮でできた財布は小銭入れの脇に有名なブランドのマークが彫られているが、私を知るための役に立つわけもなく、改札を通るための賃金すら入っていないこの財布に価値などない。
 カードサイズの真っ白い紙を取り出す。白い、ただそれだけの紙切れ。指に触れるさわり心地に少し記憶が蘇るような懐かしさを感じた。誰かに渡す仕草を真似してみる。

 名刺か。
 真っ白い名刺。
 私には、名乗る名前もない。


「どうしましたか?」
 青い制服に身を包み、青いネクタイと青い活動帽を被った男が怪訝そうな表情で私を見ていた。改札の横にある狭いボックスから白い手袋をした手が伸びてくる。
 ブランドの財布を手の中で転がしている私が怪しいのか、青い制服の男はボックスから出てこようと体を起こした。

 金もない。
 名もない。
 私が誰かもわからない。
 そんな状態を説明して何になろう。
 私は交差点を横切るかのように人波を横断し、背中に感じる視線から逃れるため地下に伸びる通路を歩き出した。
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