My Turn

□天使の配達
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 間違い手紙は、封をしたまま俺たちの部屋にある長いテーブルの端に置いてある。
 宛名も住所も書いていないのだから、開けても問題はないだろうと言ってもマックスは首を縦に振らなかった。

「プライバシーの侵害です」
 『馬鹿』を知らなかったはずの彼だが、難しい言葉はなぜか知っている。講義のおかげだろうか。しぶしぶ俺は手紙をそのままにした。

 ルームシェアをし始めたのは昨年の桜の咲く春、彼が日本に来て俺の通っている大学に留学してきた四月だった。田舎から出てきた右も左も分からない俺は少し広めの部屋を借りて一人暮らしをし始めたばかりで毎月掛かる生活費に大いに頭を悩ませていて、ちょうどよく彼も住む家を探していた。
 大学の掲示板にルームメイトを募集する書き込みをするとマックスから即コンタクトがあった。
 日本語を学びたい。
 ただそれだけで世界の端にある見知らぬ国に住もうとは、その行動力に自分に持っていないものを感じて俺は即座に承諾した。

 彼との生活は楽しい。簡単な日本語の単語の意味を一々聞かれるのは面倒だが、俺の知らなかったこともマックスは教えてくれる。アジア人との違い、ヨーロッパに住む人々の世界観、生きてきた環境やそれに関係した価値観など、興味の尽きない話ばかりだ。
 たくさんの国に囲まれた小さな国スイスのお国柄なのか、共同生活の中で自分の定めた細かいルールを押しつけたり、故郷の習慣を強要することもなく、他人に過度に干渉したり、己の意見を無理に貫いたりすることもない。
 ある程度の日本語は学んできているから、意思の疎通に困ることもない。

 俺にとっては理想のルームメイトだ。細かいことに口うるさい友人や女友達を知っているせいでマックスに対する俺の評価は星を四つ付けてもいいと言える。

「ルームメイトが俺で良かった?」
 俺だけが星を並べても仕方がない。彼に率直に聞いたことがあったが、彼の答えは本当に彼らしかった。

「僕は他のルームメイトを知りません。ジュンペイだけです。でも日本、楽しい!」
 ゴマを摺るでも嘘をつくでもなくて、いつも正直なマックス。面倒な質問さえなければ星五つなのだが、それはもう目をつぶろう。


「教会に行ってきます」
 聖書を脇に挟み、彼は軽く手を振る。手を上げてその大きな背中を見送るのは俺の日課だ。
 カトリック系の大学である俺たちの学校の敷地内には教会が併設されている。マックスは生まれながらのカトリック教徒だから教会での集まりは生活の一部なのだ。

 俺はというと全く神様仏様を信じてはいない。家も仏教なのかなんなのかよくわからない。なぜこの大学を選んだのか、カトリック系だからという理由ではないのは明らかだ。行きたい学部があったというだけで、他にこれといって拘ったつもりはない。
 だが、この大学に入学したおかげでマックスと出会えたのだし、一緒に暮らすことができたと思えば俺の決断はあながち間違いではない。


 大学生活は決して楽ではない。生活をしていくには働かなければならない。講義の間の時間をアルバイトにあてているが、そう大きな金額になるわけでもない。生活に必要な費用は自力で稼がなければならないのだから、庶民の親を持つ子は大変だ。

 居酒屋のバイトを終わらせ疲れた体を引きずって家に帰ると、ポストに白い封筒が入っていた。
 雪で濡れてしまった手袋のまま触ることに躊躇して、ポストの前で手袋を外していると背後から俺を呼ぶ声がした。

「ジュンペイ! おかえりなさい」

「おう。マックスもおかえり」

 振り向いて答えると、かしこまった返事が返ってきた。

「ただいま戻りました」

「堅いよ、それ」

「ただいま戻った」

「なんか違う」

「ただいま戻る、戻した、戻られ…?」
 高い背を丸め、首を右左に傾げながらマックスは唇を懸命に動かす。
 日本語は難しい。生まれてからそれしか知らない俺には難しさを感じたことはないが、日本語を学ぶ外国人は皆口を揃えて言う。

「ただいま、だけでいいんだよ」

「ただいま、は『時』を表す言葉です」

「挨拶だから、それでいいの。ハローはハローだろ」
 眉間に寄っていたしわが伸び、納得したように頷いてマックスは人差し指を立てた右手を上げた。

「あっ、そう」
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