My Turn

□小さきものよ「一章:一ノ瀬」
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 二人で遊ぶトランプには特殊なルールが存在していたらしく、雪絵はかなり苦戦しているようだった。だが、勝った時の小さな喜びや負けた時の悔しそうな笑顔や遠慮がちな手振りなど、素直にその時その時の感情をさらけ出す彼女はとても楽しそうだった。

「大貧民、難しい」と愚痴ってみたり、ババ抜きで父親のするポーカーフェイスにだまされてへそを曲げてみたり、一番にあがって大はしゃぎしたりとあまり見られない雪絵のコロコロと変わる表情に一ノ瀬の心は目を離せられなくなっていた。
 一通りのゲームをやり尽くすと母親が「雪絵ちゃん、シャワー浴びたら?」と席を立った。
 ひとしきり遠慮して「お先にどうぞ」と「いいんですか?」を繰り返し言い合って、雪絵は強引に母親に連れられて行った。
 父親は息子と二人きりになると少し疲れた様子で口を開いた。

「やけに楽しそうだったなぁ」
 四人でテーブルを囲むにぎやかな食事の席も、父親の為に「ハッピーバースディ」を歌っている時も、カードをはさんで向き合っている時も、雪絵は始終笑顔だった。本当に楽しそうだった。

「ああ、こういうの初めてなんじゃない」

「ご両親は、いるのか?」

「よくわかんない。雪絵からは話してこないから。でも家のことはほとんど雪絵がやってるらしい。飯の買い物とかしてるって聞いたことあるし」

「ふうん」父親は少し時間を置いてから言った。

「雪絵ちゃんは部活とかしてないのか?」
 学校が終わるとまっすぐ家に帰る雪絵。いつも夕方早い時間に乗り換えの駅にいる雪絵。個人的な趣味などありそうには見えない。活動していない部に所属しているとも考えられない。雪絵の通う高校は一ノ瀬の通っている商業高校とは違って高偏差値の学校だった。部活動より学業に力を入れているのかもしれない。

「やってないと思う」

「そうか」
 趣味は、たぶん兄夏生。
 兄貴のことしか頭にない。
 俺が雪絵のことしか考えられないのと一緒だ。


 空のカップを持ってキッチンに行くと紅茶を淹れている母親がなぜか小さな声で話し出した。

「ねぇ龍也。雪絵ちゃんの両腕に包帯が巻いてあるの。知ってる?」

「いや、知らない」

「ここの所に」そう言って自分の腕の肘下前腕部分を指を広げて指した。手首までいかない範囲を見て疑問が浮かぶ。

「両腕?」

「そう。で、聞いたの。どうしたの?って」母親は神妙そうに続けた。

「火傷したって言ってた」

「火傷?」
 母親の言う両腕のその部分を一体どうやって火傷するのだろうか。彼女の腑に落ちない答えで頭が働かない状態のまま一ノ瀬はその場に固まった。雪絵に何があったのか。


 ブーブーと音が聞こえた。
 キッチン横に置いてある雪絵の大きなバッグの中からだった。
 その音は緊急を要するかのように何度も何度も鳴っていた。メール受信を知らせるものではないようだ。キッチンに入ってきた父親と目を合わせる。雪絵の腕のことを母親から聞き「ちょっと心配だな」とつぶやいた。
 ブーブーと鳴るその無機質な音はちっとも止まなかった。


「シャワーありがとうございました」
 一ノ瀬は、雪絵の濡れた髪と湯気の上がるその体を目の当たりにできずに顔をしかめた。両腕を見る。やはり暑い夜でも長袖のTシャツを着ていた。

「携帯が鳴ってたよ。急ぎみたいだけど」
 父親の言葉に雪絵の表情が明らかに変わった。口を結び、下を向く。濡れた髪から滴が落ちた。
 ブーブーと鳴るバイブ音がキッチンに響いた。

「雪絵?」どう見てもおかしい彼女の態度に一ノ瀬は思わず声を掛けた。電話取らなくていいの? とは聞けなかった。
 拒んでいるように見えた。
 電車の中を転がる携帯電話を冷たい視線で見ていた雪絵と触れられるほど自分の近くにいる今の雪絵が重なって見えた。

「ちょっと失礼します」
 覚悟を決めたかのように動き出した雪絵は、バッグから携帯電話を取り出すと廊下へ続くドアを開けた。
 話し声は聞こえなかった。でも、キッチンにいる父親も母親も口を開こうとはしなかった。
 誰からの電話なのか。
 彼女が出たくない相手とは誰なのか。
 顔も見たことのない鼓膜に響いたあの怒鳴り声の主が頭に浮かんだ。

 短い電話を終わらせた雪絵はキッチンに戻ると自分の持ち物をバッグに入れ始めた。

「ごめんなさい。急に帰らなくちゃいけなくなって」
 帰り支度をするためだろう。寝巻では帰れない。バッグの奥から服を取り出す。
 バスルームで着替え慌ただしく戻ってきた雪絵に、母親が静かに声を掛けた。

「大丈夫?」
 優しい声色に動揺したように雪絵の手が止まった。その顔は今にも泣き出しそうだった。
 口元を押さえ、必死にこらえているように見える。

「嫌なら行かなくてもいいんじゃない?もう少しうちにいたら?」母親にも雪絵が電話を拒んでいたように見えたのかもしれない。腕のこともある。彼女を今一人にさせるのは心配だった。
 父親がその後を続けて言った。

「もう遅い時間だし、親御さんになら俺が話すよ」
 心配そうに雪絵を見る父親と母親と一ノ瀬がその潤んだ瞳に映った。
 雪絵は口を覆った手を下ろし、腰を折って深く頭を下げた。「ありがとうございます。大丈夫です。心配掛けてごめんなさい」一気に言うと今度は顔を上げて笑った。

「ご馳走様でした。とても楽しかったです。お邪魔しました」

 荷物を肩に掛け、玄関まで行くともう一度頭を下げ、見送る両親に申し訳なさそうに「失礼します」と言って雪絵は出て行った。

「送るよ」と言って後を追い掛けてきた一ノ瀬に彼女は手を振った。

「本当に大丈夫だから。ありがとう」
 背中を向けて走り出した。

「メールするよ」一ノ瀬は叫ぶように言った。伝われ。
 俺の気持ち、雪絵に伝われ。
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