My Turn
□小さきものよ「一章:一ノ瀬」
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電話で約束した日、大きな荷物を持った雪絵が待ち合わせの駅にいた。彼女が長袖のTシャツを着ていることに驚いた。「暑くないの?」と聞いても首を振るだけだった。台風が近づいているせいで風が強い。夕日で赤く染まっている空がゴーゴーと呻っていた。
一ノ瀬は電話越しから聞こえた怒鳴り声のことを両親に話せないでいた。何か思い違いをしているかもしれないし、何より事を大きくしたくなかった。
「ねぇ、わざわざ今日にしたの?」朝からそわそわしている父親の姿を思い出す。まったくいい歳して何を浮ついているんだ。
「お父さんの誕生日でしょ?」嬉しそうに言う雪絵の笑顔が眩しかった。
「ああ。お袋に聞いた?」風になびく彼女の髪を撫ぜた。
雪絵は少し戸惑って体の向きを変え「どうしたの?」と言って歩く足を止めた。髪に触れられたことに戸惑っているようだった。
「ああ、うん」
ちょっとの間会わなかっただけで何か雰囲気が変わった気がした。女っぽくなったというか、セクシーになったというか。
「いや、ちょっとね」
頭に浮かんだ雪絵の淫らな姿を打ち消すのに時間が必要だった。彼女に背を向けて大きく深呼吸をする。ごまかせるか自信がない。「具合いでも悪いの?」覗きこんできた雪絵の首筋に汗のつぶがついていた。
「いや」雪絵の体が近すぎる。一ノ瀬は動転して思わず声を張り上げた。
「話があるんだ」一ノ瀬の突然の言葉に雪絵は眉を上げて頷いた。「うん、何?」
「雪絵に話したいことがあるんだ」同じことを二度口にした違和感に首を傾げた。自分の口から出たその言葉を頭の中で反芻する。
「うん、聞いてるけど」
「なんか急に大人っぽくなった」目をつぶり、諦めたようにつぶやく。肌を露出しているわけでもないのになと一ノ瀬は一人ごちた。
「それだけ?」
軽蔑したような目だった。ため息をついて顔をしかめ「男って、そればっかり」と吐き捨てた。怒ったように歩き出す雪絵の背中を一ノ瀬は慌てて追い掛けた。
「ごめん」
大股で歩く雪絵はつぶやくように言った謝罪の言葉を聞いていないかのようだった。そんなに言われて嫌なことを自分は言ったのだろうか。
「褒めたんだけど」言い訳がましいとは思ったが、あまりにむきになっているのでつい口をついた。
「いやらしい目で見ないで。気持ち悪いから」
雪絵は心底見下すように言った。
見るな?
気持ち悪い?
「なんだよ、その言い方」
一ノ瀬の中で張りつめていた何かが弾けた。
「普通だろ、好きな女を抱きたいと思うのは。しょうがねぇだろ、好きなんだから。会いたくて仕方がなかったんだよ。お前が何してんのかって、何考えてんのかって。不安で死にそうだった。俺って何だよ? ただの彼氏役かよ?」
一ノ瀬はその口から溢れ出す感情を抑えることができなかった。
「それだけかよ?」
思っちゃいけねぇのかよ。
雪絵が欲しいって、思っちゃいけねぇのかよ。
悲痛に歪んだ顔をした一ノ瀬は「それだけかよ」と割り切れない気持ちをもう一度口にしてからその唇をぎゅっと閉じた。突っ張っていた足から急に力が抜け、しゃがみ込む。爆発させた想いと共に自分の体まで木端微塵になったような気分だった。今顔を伏せたら目に溜まった涙がこぼれ落ちる。拳を握り締めて耐える。
「ごめん」
同じ高さに腰を落とし、まっすぐに一ノ瀬の目を捉えて雪絵が言った。
「ごめんね。私、自分のことだけで頭がいっぱいだった。そうだよね、考えることは一緒だよね。ごめんね」
その綺麗な瞳には一ノ瀬しか映っていなかった。優しく憐れむような温かい同情の視線だった。
我慢していたまばたきをたった一度しただけなのに、一ノ瀬の目から涙が止まらなかった。とめどなく流れ出る涙を拭くのが癇に障った。「見るなよ」と強がる。
肩でゆっくり息をしてうるさい心を静めたかった。今すぐに力の入らないこの体を捨ててしまいたかった。
人の家の壁にもたれかかってその場に座り込んだ一ノ瀬の小刻みに揺れる肩を雪絵は両手いっぱいに抱いた。
彼女の肩にすがって泣く一ノ瀬の訴えるような小さな声は、雪絵の耳にだけ聞こえた。
彼女の細い体を抱きしめ、今まで伝えられなかった想いを何度も伝えた。
好きだよ、雪絵。
大好きだよ、雪絵。
もうどうしようもないくらいお前が好きだよ。
もう、どうしようもねぇよ。