長編
□最後に見たのは。弧を描いた誰かの口元。
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ぐ、と黙り込むこと約5秒。突然、男が愉快そうに大口を開けて笑い出した。
何が起きたのか分からず、ただ、ぽかんと彼を見つめる。
「そう構えないでください。別に取って食う訳ではありませんから」
男は一頻ーひとしきーり笑って、それからそう言った。隈の酷い目の目尻には、うっすらと涙が溜まっていて、それを親指で軽く拭い私を見る。
確かにあの息が詰まるような威圧感は、すっかりなりを潜めていた。
それでもまだ納得のしていない私に、男がそれに、と言った時だった。
ドンドンと、強く扉が叩かれた。
私と男の目が、扉へ向けられる。
「ここの結界を外してください。ボクが入れません」
「おや?煩いのが来てしまいましたねぇ。部屋で大人しくしているように言い付けていたのですが…」
激しくガタガタと揺れる扉を眺めつつ、のんびりとした口調で男は言った。
扉の外にいる人物の、聞き覚えのある声と、激しく叩かれる扉。
今にも壊されるのでは、と心配になるが、声の主ーぬしーが扉を破って入って来ないので、部屋の周りには彼の言う通り結界が張られているらしい。
男は一度深い溜め息を吐き、彼を入れても?と聞いてきた。
正直なところ、その声の主に心当たりがあるので、あまり会いたくないのが本音。だが、あんなガタガタと鳴っているホラーチックな扉を視界に入れ続けるのも御免だ。
先程の男の言葉を信じるのなら、今のところ危害を加えるつもりはないだろう。
そう判断し、別に構わない、とだけ答えた。
「早く開けてください」
もう何度目かも分からない呼び掛けが聞こえた瞬間、バキッという音と共に、とんがり頭の男―アマイモンが転がり込んできた。
蝶番は衝撃でどこかへ弾け飛んでしまい、無惨にも砕かれた扉の木片が辺りに散らばる。
「アマイモン!私は部屋で大人しくしていろと言った筈だぞ?」
呆れた、と言わんばかりに男が怒鳴る。
聞いた声だと先程から思っていたが、どうやら目を覚ますときに聞こえていた、あの声の持ち主だったようだ。
扉は開けるものだとか、紳士なら行動を慎めだとか、そんなお小言をくどくどと言う男の背中を眺めながら思った。
ふと、アマイモンと目が合う。
「はい、すみませんでした。ところで、彼女はどうですか?」
と言って私を指差す。
彼の方を向いていた男も、私の方を少しだけ振り返った。
「アバラを2本折っていたが、今はほとんど治癒している。他は少し酷い打撲程度だ。あと一日もすれば全快するだろう」
アバラを2本も折っていたのか。どうりで呼吸がし辛かった訳だ。
男の言葉に納得し、胸を手で軽く押さえる。彼の言った通り、ほとんど治癒しているのか、痛みは全くなかった。ただ、他の傷は酷く痛んだが。
「アマイモン。今はまだ私が彼女と話をしている。ここにいてもいいが、大人しくしていろ」
「はい、分かりました」
顔はまた向こうを向いていたので、彼がどんな表情をしているのかは分からない。けれど聞こえた声は、随分冷たいもののように感じた。
男とアマイモンの関係は一体何なんだろう。
話を聞いている限り、力量関係では男の方が優位のようだが。アマイモンより上、となると、彼の兄弟たちぐらいだろうが、こんな男を私は知らない。いや、もしかすると私が生まれる以前にこちらに来ていたのかもしれない。ヨハン・ファウストと言う名前はきっと本名じゃない。面倒臭いし、もう逃げてしまおう。
「あ」
ぐるりと上体を棚の方へ捻り、その上に乗っていた物たちを手に取った。こちらを向いていたアマイモンが、声を上げたのとほぼ同時にベッドから飛び降り、一度床の上でゴロリと受け身を取って転がる。一瞬見えた男は、まだこちらを向いていなかった。
大丈夫。
そう確信して、そのままの勢いで一番近くの窓に頭から突っ込んだ。
窓ガラスはすんなりと砕けた。
ガラスの破片と一緒になって私の体も空中に飛び出し、内臓が持ち上げられるような浮遊感の後、重力にしたがって落下する。
痛みを堪え、地面に降り立つと、突然パンッという音がし、体が動かなくなった。
あ、と口から意味を持たない音が溢れる。
まずいと頭の中で思ってみても時既に遅く、そのままドサリと横に倒れると、私の意識は再び暗闇に閉ざされた。
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