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□下で
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「ハァハァッ……」

公園から走り逃げ、閑静な住宅地にまで辿り着くと全身汗だくだった。
以前はこんな簡単にへばったりはしなかったのに。
力尽きた身体を電信柱で支える姿は酷く無様だ。
乱れる呼吸を整えようとすれども、喉からはヒューヒューと滑稽な音がして酸素を吸うのもままならない。
着込んだコートは重く、着ているのが億劫になる。
サイズが合っていないため尚更だ。
裾も袖も引きずるようで邪魔くさい。
けれどこのコートを脱ぐわけにはいかない。
絶対に、だ。


「どうしてッ!どうして君が来るんだ!」


堪えきれなかった劣情が小さくこぼれ落ちた。
ひらひらと舞う雪が頬に降りかかり、自分に一筋の涙を流させる。


「シズ……ちゃん」


こぼれた声は震えていて、自分でも酷くみっともないと感じた。
何よりも、この弱々しくて高い声が気色悪かった。

声だけではない。
簡単に涙を流す瞳も、長くて邪魔な睫毛も、首の締まった鳥みたいな声しか出さない喉も、軟弱な指に細い鎖骨に重い胸も腰も、へそから内臓、太ももから踵に爪先まで全部が、桜の香りが漂うこの肉体全てが気色悪かった。


「会いたくなかった!」


身体中が熱い。
けれど震えは止まらず、自分で自分を抱きしめた。
それでも震えは止まらず、思考は乱れ、揺れ、足元から崩れ落ちてしまいそうだ。


――絶対に出会ってはいけなかったのだ。


「どうしてッどうして俺だと気付いちゃうの!?どうして!」


――絶対に気付かれてはいけなかったのだ。


みっともない嗚咽が止まらない。
以前はよく回った口も、今は小さな子供のような癇癪に振りまわされて制御不能だ。
苛立ちのまま電信柱を叩けば、振り下ろした拳が痺れてしまった。


「畜生……畜生」


こんな姿は静雄にだけは見られたくなかった。
こんなみっともない存在が折原臨也なのだと、絶対に絶対に知られたくなかったというのに。
そのためにずっと、ずっと隠れていた筈なのに。
なのに、この身を襲う熱情がそれを裏切った。
静雄に見つかった一瞬、ほんの一瞬、逃げることを躊躇った。
彼の眼差しを受けて、ほんの一瞬で、感情が爆発した。


「……シズちゃん」


舞う粉雪が折原臨也の頬に落ち、一粒の雫となる。
頬を伝ったそれは留まらず、次から次と瞳から溢れ、


「逢いたいよ……」


零れ落ちた。








――変わりたいと願ってしまった。

それは滑稽な願いだった。
どこから男が歪んで、歪んでいるからこそしなやかだった筈の男の心が、いつから軋んでしまったのかは誰にも判らない。
男自身でさえも、何が男にそう思わせてしまったのか理解してはいなかった。

けれど男は願ってしまった。

桜の舞い散る、美しくもありきたりな夜。
嫌悪という名の負の感情とはいえ、男の心の何割かを確かに掴んで離さなかった忌々しい化物を見た瞬間に。

願ってしまった――。




ただ、綺麗だと思ってしまったのだ。

桜の舞い散る、美しくもありきたりな夜。

花見客の喧騒が近くて遠い異質な空間。

独りぼっちだった自分の目の前に、あの化物がいた。

化物と自分を等しく彩る、淡い淡い桜の花びら。

桜が、綺麗だと思ってしまったんだ。




折原臨也という男の心を何が蝕んだのか、彼自身でさえ理解していなかった。
いや、彼は本当は察していたのかもしれない。
けれど彼はそれを否定し、悟るまいとしてより歪んだのかもしれない。
どちらにせよ、その封じ込めていた想いは、その夜、その一時、その感情で箍が外れてしまった。


「少し散歩でもしようか」


気付いた時には、彼は化物に歩み寄っていた――。





喧嘩もせず、化物の手を引いて歩いた数分間。


「そうだね、君と俺が一緒にお花見なんておかしいよね」


らしくなく緊張して、顔に笑みは貼りついていたかさえも定かでない。

けれど、悪くなかった。


「でもさ、もし人生にリセットボタンがあるとして」


花見客の喧騒が遠くに聞こえた。
二人だけ、世界でふたりぼっち。
そんな勘違いをするくらいには、桜が綺麗だったから。


「もし全てをリセットできるんなら俺は……」


だからトチ狂って、馬鹿みたいなことを漏らして、胸を熱くさせて、泣きたくなって、縋りたくて、我を忘れて、


――変わりたいと願ってしまった。


花びらが舞う。

桜が舞う。ひらひらと。

ひらりひらり、ひらひらと。

むせ返るほどの花の香に包まれながら。


「いつか」


折原臨也は願ってしまった。

自身を惑わすこの感情を、全身を襲う熱の原因も、未だ繋がり合った手のひらに伝わる想いさえも否定し、放置したまま。


「桜の下で――」


それらを認められない自身を変えたいと――










「変わりたくなんかなかった」


寒さの厳しい冬空の下、たった独りの臨也は力尽きたまま泣き伏した。
涙は零れ落ち続け、臨也を凍えさせる。
その一方で身体の中心は未だ熱を持ち続け、臨也のプライドを裏切るのだ。


「俺はッこんな風に変わりたかったわけじゃない!」


何度も何度も叫ぶ。
その叫び声は雪に埋もれて、誰の耳にも届かない。
けれど臨也は叫ぶしかなかった。
認めない、認めたくないと。


けれど、認めるしかない自分の本心が憎かった。
先ほど静雄に触れかかった表皮が、ほんの一瞬彼の腕の中に捕えられた全身が熱を持っている。
臨也、そう呼ばれた鼓膜は震え、今も震えっぱなしだ。
こんなにも正直で、弱々しいのが現在の折原臨也なのだ。
自分の願望が、一瞬でも浮かんでしまった妄想が己が形を変えてしまった。
こんな形で変わったところで、意味は無いというのに。


「俺はッ俺は……」


変わってしまった自身を呪い、元に戻るために海をも渡った。
情報屋としての人脈、金、全てを尽くして奔走した。

けれど、元には戻れなかった。

見せかけだけ戻しても意味などない。
本当の意味で元に戻ることは出来ない。
自分の心を、愚かな願いを抱いてしまった過去を変えることは出来ない。
だからもう、折原臨也という存在を立て直すことは不可能になった。
そうしてどうすることも出来ずに、おめおめと日本に戻った臨也を待ち構えていたのは――桜だった。




季節は移ろい桜の花はとっく散り落ち、あの桜並木は色が変わって紅葉が彩る番だった。
今では葉も全て枯れ果て、裸のままの樹木が並ぶ。
それなのに、臨也の眼には桜が舞ったままなのだ。
桜がないのに、常に桜の香りが薫るようになってしまった。
真冬の深夜、月明かりに照らされる桜吹雪が瞳に映るようになった。
その桜はあまりに美しく、綺麗で、痛かった。

痛かった。

かつて静雄と歩いた桜並木。
その幻想が醒めぬまま臨也を追い詰める。
この事実が胸を締め付けた。この幻想の美しさが身を切り裂いた。
何故なら、幻想は自分の愚かな妄執なのだから。
なによりも醜い自身を映す、執着の化身なのだから。
けれど臨也は桜を拒絶できない。
だから桜は臨也を捉えて離さない。
女々しく思い出に浸ったまま、やがて臨也は人目を忍んで桜並木を訪れるようになった。

それが滑稽で、みじめで、痛かった。
なのに、桜は、己の妄執はそれだけでは許してくれなかった。
臨也だけを贄には、生贄を一人だけでは赦してくれなかった。


――臨也、臨也。

懐かしい声が自分を呼んでいた。
聞き覚えのある声だった。
自分が何度も夢見た声だった。
けれど嘘だと思った。夢なんだと思った。
思い浮かべた人物が自分を呼ぶ筈はないのだから。
急に行方不明になった仇敵などを、半年以上経った今も捜す筈はないのだから。

なのに自分を呼ぶ声は消えず、徐々に近づいてくる。
予感めいた確信が恐ろしくて、恥も外聞もなく物陰に隠れると、一人の男が桜並木の中を彷徨っているのが見えた。
月明かりの下、幻想の桜に彩られた道を歩むのは、自分が求め続けた化物。


「……シズ……ちゃん」


信じられなかった。
けれど夢でなかった。
平和島静雄は折原静雄を捜している。
あの静雄が、自分を捜して、いたんだ。

――臨也、臨也、愛してる。

静雄もまた、変わっていた。
彼は毎晩、幻想の桜並木を彷徨う。
臨也と同じ桜を夢見て、愛をささやく。
彼もまた、桜に捉われていた。
狂っていた――。


「シズちゃんシズちゃんシズちゃん」


あの静雄が、自分を愛して、くれた。
愛されて、しまった。
桜に、狂ってしまった。


「俺は……俺は!」


幾夜、自分は静雄の名をささやいただろう。
桜に狂う静雄を見た時、自分を襲った感情は歓喜だった。
そうだ、折原臨也は、俺は浅ましくも喜んだ。
自分の感情を持て余して、愚かしく認めないでいるくせに、折原臨也は――俺は、俺は、俺は、嗤った。
桜に、狂ってしまった。

――臨也、臨也、愛してる。

狂った静雄の声に鼓膜を震わせ、俺を捜し求める静雄の姿に胸を震わせ、その表情はきっと歪んでいた。
狂ってしまった平和島静雄。
壊れてしまった喧嘩人形。
彼はきっと、もう戻れない。
俺と同じ、化物のまま、ひとりぼっち。
だから、もう、彼はずっとずっとずっとずっと。


俺のもの。


世界は俺とシズちゃん、ふたりぼっち。







世界は桜に支配され、俺は桜の傀儡。
俺は化物。
生贄もまた、化物。
俺と同じ、可哀相な化物。
だから俺は愛せる。



「君が好き」



あの日、折原臨也は平和島静雄との関係を、きっと変わることのない二人の距離を変えたいと願ってしまった。
昨日までの自分をリセットしてやり直したいと願ってしまった。
このまま静雄と二人、ふたりぼっちで過ごしたいと願ってしまった。


――愛したいと、

――愛されたいと願ってしまった。



けれど、それは愚かな願いだった。
折原臨也は平和島静雄に恋をした。
なんて滑稽な喜劇。駄作なのか。
ここまで変わらなければ、ここまで追い込まれなければ俺が認められなかった願い、想い。
そんなもの、意味はない。
だって、俺は、その願いのせいで――







「で、その恋人から隠れてる女の幽霊もいるそうなんです!」

「なんで隠れるんだ?さっさと男と再会すればいいじゃないか」

「さあそこまでは……もしかしたら、変わり果てた自分の姿を恋人には見せたくないんじゃないんですか?」

醜い幽霊になった自分など、恋人には見られたくないと女子生徒は言う。

「なら男が悪い。愛が足りないんだ」

「キャー誠二カッコイイ!惚れ直しちゃいます」

「というか美香、結局この話好きだよな。別にどうでもいいけど」


そもそも姿形が変わる相手に惚れるから悪いんだと一人ごち、誠二と呼ばれた男子高校生はそっと空を見上げた。
ひらひらと舞う粉雪の先に、愛しき首を思い浮かべて。







桜の香りが薫る不可思議な身体。
髪を短く切り、愛用の香水をつけ、去年と同じ黒コートで身を包んだとしても、鏡に映る姿は自分と異なる人物だった。
それは見た目けに留まらず、一気に落ちた身体能力は、ついに最大のタブーを引き起こし。




――掴まれた、そう実感する寸前に彼の指先はほんの一瞬宙を掻き、そして掴まれた。

力を込められたら砕ける、かすかに触れた表皮の神経がそう警戒を発する。
それは自分を捕えた捕獲者も同様に、いいや、より強固に察した。
触れた、か触れないか。
ほんの一瞬、瞬き一秒の刹那、彼は躊躇したのだ。

「――ッ」

静雄は臨也を抱きしめる、筈だった。
けれど彼の腕は一瞬宙を掻き、躊躇いは勢いを削ぐ。
その隙をついて俺は逃げた。
けれど、かすかに触れ合った表皮。
不覚にも感じた、電流にも似た甘い痺れ。
全ては手遅れ。
手遅れの闘争。手遅れの逃走。
俺も悟った。

俺では、この女の身体では平和島静雄の暴力に耐えられないのだと。




平和島静雄が折原臨也に対して行ってきた無意識の手加減。
それは静雄が天敵に向かってセーブしていた、最大のボーダーライン。
他の人間ならば壊れてしまう、ギリギリの領域。
他のボーダーラインを遥かに超え、常に死と隣り合わせの触れ合いだった。
それはきっと、折原臨也だけが手に入れた、唯一人にだけ与えられた一種の信頼。
折原臨也が勝ち得た、平和島静雄との二人だけの世界。
それを、俺は、失った。
失ったんだ。




だから俺は愛されない。

平和島静雄に愛される折原臨也は失われた。

だから逢えない。

もう逢えない。


桜は、愛しの人を奪った。

















「シズちゃん見てよ、桜が綺麗だよ」


桜が舞う。ひらひらと。

ひらりひらり、ひらひらと。



「冷たいね」



むせ返るほどの花の香に包まれながら。



「シズちゃん……」



桜は舞う。



「それでも俺は」



愛しの人を連れ去って。






「君を愛してる」





それでも桜は舞い続ける――









今宵も男が一人、彷徨い歩く。


「シズちゃん」


桜の下を彷徨い歩く。


「シズちゃん」


愛する人を捜し求める。


「俺、決めたよ」


女はそれを見つめ続ける。



「もしも君が、これからもずっと狂ったままで」


男から隠れ、女は今日も幻想の桜の下。


「桜は咲き続けて、俺は女のままで」


桜が舞う。ひらひらと。


「なにひとつ解決しないんだとしても」


ひらりひらり、ひらひらと。


「それでもさ、君がずっとずっと俺を捜してくれるなら」


触れれば散る、儚きものだとしても。


「本当の桜が咲いちゃって」


桜は、


「あの日の桜に出逢えるなら」


桜は、


「もしも……変わらない想いがあるのなら」





桜は――




「俺も……」





また咲く。






今宵も女は一人待ち続ける。
幻想の桜の下、むせ返るほどの花の香に包まれながら。
昨日までの自分に別れを告げ、悲しみをリセットできる時まで待ち続ける。


桜が舞い散る、あの日の約束を胸に抱き――







――いつか 桜の下で





END


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