BASARA

□手つなぎ鬼
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〜無自覚に臆病な彼女の場合〜


手――といって彼女が最初に思い浮かべるのは、崇拝せし麗人のたおやかで冷たい掌だった。
彼女が心から慕う主の美しい手のひら。
その掌に己が手を包まれた時の幸福感は言葉にしようもなかった。
軍神と謳われる主君は武人らしく、刃を携える手は常に武具に覆われている。
だが彼女はほんの数回ではあるが、彼の素手に触れる機会があった。
絹のようにきめ細かい麗人の素肌に触れる恐れ多さ、武人の手ながら優しく彼女の指を包み込む動作の美しさ。
主の手に触れられた瞬間、彼女は全身が歓喜で震えてしまった。
たおやかな見た目と裏腹に主君の手のひらは冷たく、あまりの冷たさに鋭利な刃を連想させる――彼の手はまさしく神の御手であった。
そう、あまりに神々しいがため、彼女は主君の手の感触を思い出せなかった。
彼の手に触れられれば、歓喜のあまり熱を発してしまう彼女を諌めるが如く、主君の手の冷たさが怖いくらいに感じられたものだ。
冷たさと美しさ、彼女の身が震えたのは歓喜だけからなのか……彼女には判らない。
ただ美しく冷たい掌を思い出す度に、恐れ多さに震えながら、しかし彼女は主の手のぬくもりは思い出せないのだ。
あまりに現実離れしていて、手を繋いだ実感は得られなかった。


だからであろうか、彼女は嫌いだと言いながらも、同郷の忍である男の手のぬくもりを忘れられないでいた。
忍として生きる彼等はたとえ同郷であっても馴れ合いはしない、筈であった。
彼は違った。幼馴染でもある男は昔から彼女に甘かった。
厳しい訓練の最中、本当につらい時に差し出された手は、どんな時も温かかった。
何かの折、ふとその手のぬくもりを思い出す事がある。
厳しい任務の帰り、一人で怪我の治療を行う最中、主の冷たい手に恐れ多くも頬を包まれた時……。
さらに、主の元に訪れる風来坊も同じように温かい手を持っていて、その慣れ慣れしさも相まって彼女は憎たらしい忍の存在を度々思い出してしまう。
だから彼女は……。


――おや?どうやら彼女が正気に戻ったようだ。
最初に愛しき主君の話をしたため、今までずっと自分の世界に浸っていたものだからね。
僭越ながら僕が代わりを務めていたのだけれど。
せっかくだ、続きは本人から聞かせてもらう事にしよう。





……私は別に、あいつの事を考えたりはしない。
私の全てはあの御方のために存在する。
あんな猿なんぞ思い返したりする筈がないだろう。
ただ……その……何度もあいつが私に手を出してくるから、知りたくもない汚らしい手の温度を覚えてしまったのは事実だ。
まだ互いに子供だった頃の癖もあるんだろうが、あいつが忍のくせに馴れ馴れしいから悪いんだ。
悔しいがあいつの方が実力は上だからな、私が何度攻撃しても、毎回あしらわれてしまうから。
結局は気安く触れられてしまって……むかつく。


……私とあいつは何度も手をつないだ事がある。
幼き頃より共に育ったんだ、当然といえば当然だ。
あいつと手をつないで帰路に着いた事もあったな。
あの手の温かさは……悔しいが、どこか懐かしい。
私は里を裏切ったというのにな。馬鹿らしい。
けれど私は……あいつは……。
……それこそ忍らしくない感傷なのだろうが、私はあいつの温かな手を二度と触れられないだろうと、なんとなく思っていた。
いや、今だってあいつの手をしっかり確認した訳ではないんだがな。
きっとあの時のせいなんだろう。


一度だけ、あいつから手を振り払われた事がある。
たしかあいつの初任務の時だったか。
今思えばあいつの反応も当然の事だ。
任務明けの気が高ぶっている時に手に触れようなど、同じ忍見習いのくせに配慮が足りなかったんだ。
あの頃は相手が馬鹿猿だとはいえ、無事に戻ってくるか心配で、そんな事まで気が回らなかった。
しかもその甘さが忍に向いていないと、それ以来あいつから言われるようになったんだ。
恩知らずめ。
ただな、あの時は手を振り払われても怒りを覚える余裕すらなかった。
幼なじみが傷を負っている、それだけで泣きたくなった。
その時触れた手は信じられないくらい冷たくて、あいつは私の手の方が冷たい、かじかんでるなんて言っていたが絶対に嘘だった。


……思えばあれ以来、私はあいつの手に触れた事がないのかもしれない。
記憶の中に残る漠然とした手のぬくもりと、あの時のあいつの冷たい手とが結びつかなくて、長い間どこかで引っ掛かっていた。
だから不本意だが、互いに戦忍として再会した時、べたべたと身体に触れてきたあいつを殴り付けながら、私は――どこか安堵した。
きっとあいつは、甲斐に赴いてからあの手を取り戻したんだろう。
あの暑苦しい主に感化されたのだとしたら、少し羨ましくもある。
……こんな事、絶対にあいつには聞かせられないがな。




嗚呼なんだろうな、なんて言ったらいいか分からない。
そうだ、なんだってあいつの話なんかを。
分からない、何故こんなにも確かめたいのだろう。
あいつの手のぬくもりは確かなものなのに、それでも朧げだ。
温かみを知っているのに、まだ不確かで落ち着かない。
あの御方の手も、あいつの手も、私は触れた筈なのに。
どうしてこんなにも不安なんだ……!
こんなだから私は、私は――……違う。
あの男だ、あの男が私の手を――掴んだからだ。





不覚にも追っ手に囲まれ苦戦していた時だった。
常人ならば立ち入らない筈の夜の山奥で、あの男を見た時は驚いた
私を追ってきた連中も同様で、その隙をつかれたんだ。
いいや、構えていたとしても同じだっただろう。


――手を、掴まれたんだ。
気づいた時には、私は男の腕の中にいた。
私を始末しようとしていた敵は全て倒れていて、息をしているのは私と男の二人だけ。
ただ驚いて、振りほどく事も出来なかった自分が不甲斐ない。
何故あの男が。
何故、何故、何故あの男が――凶王が私を助けた?


分からない。分からない事ばかりだ。
あの男に手を掴まれたのはほんの一時。
奴は無言のまま私を解放し、あろう事かそのまま去ってしまった。
意味が分からなかった。
何故西軍の大将が上杉の忍を助けた?
何かの罠か?罠ならば何故、私は無傷のまま今も生きている?
私には理解できない。
ただ、ただな……『手をつないだ』感触が残って消えないんだ。
手を掴まれた感触が、手をつないだ実感が、私から思考を奪った。
あれ以来、どうやっても消えないんだ。
何も考えられない、世界が不確かで、気味が悪い。
馬鹿だ、私は馬鹿だ。
どうして私はあの感触を、何故あんな男の手を……あいつやあの御方の手と比べてしまったのか……。


いいや違う!
慣れない感触、予期せぬ男の行動に驚いただけだ。
嗚呼己が情けない!
そうだ、手を掴まれて感触が残るほどの間、敵に拘束されていたのが問題なんだ。
いつから私はこんなにも軟弱になった。
手をつなぎたいなどと、恐れ多くも御手に触れたい、確かめたいなどと……!




もしあの時、もう少し長く手を握られていたらどうなっていたのだろう。
あるいはそれ以前に、あの燃え盛る本能寺であいつから伸ばされた手が届いていたら、隔たれた門越しに伸ばし合った手が届いていたら、何か掴めたのだろうか。
私には分からない。
……いいや違う、分かる必要なんてないんだ。
私にはあの御方さえいればいい。

私はつるぎだ。あの御方の剣。
ぬくもりも、手をつなぐ事も必要ない。

だから、だから、こんな雑念など消えてしまえ。
嗚呼、嗚呼――どうか私をお導きください。
どうか貴方様の剣として私を振るってください。

――様。




――謙信様!
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