しがないバイトです。
□第四章
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背中から包みこむように立たれ、包丁を掴む右手を右手で、きゅうりを抑える左手を左手で掴んできたのは尾西だった。
そのままマリオネットのように手を動かされる。
「おい、俺が動かすからって力を抜くな」
「あっ、はい!」
ぎゅ、と包丁を握ると、尾西の右手も俺の右手をぎゅっと握った。
「まず、ヘタを先に切る」
スッと取れていくきゅうりのヘタ。
しかし俺の意識はそんなところに無かった。
背中と両手に感じるのは尾西の心地好い体温で、鼻を掠めるのは尾西の焼きたてパンのような香り。
「先っぽを軽く入れてから、ゆっくり腹を押し付けるように」
包丁を丁寧にきゅうりに押し付けながら言う。
でも俺はそんな言葉なんて耳に入らない。
いや、尾西は包丁の扱い方を手取り足取り教えてくれているだけだ。それはわかっている。
でも思い出すのはあのときーーー尾西の車内で俺の足に触れた光景、だった。
「最後は少し力を入れて、こうだ」
ストン。
気がつくと厚みの均等なきゅうりがまな板に並べられていた。
「おい、まさかボーッとしてたんじゃないだ「うわああ!」…あ?」
手が緩められた瞬間、俺は勢いよくしゃがみ床をハイハイで歩きキッチンからリビングへ逃げた。
できるかぎりの速さ。
目の前にあったソファに飛び乗り、クッションに顔を埋めた。
頭を支配するのは先程から同じ言葉ばかり。
"恥ずかしい"
***
バゴン!という音がキッチンから聞こえてきて、不安に思い様子を見に行くとやはり。
まな板の上に倒れるのは何とも可哀相なきゅうりだった。
「ったく…」
包丁を持ったまま「ん〜」と唸っている小さな背中を後ろから包み込むように立ち、手を添える。
「まず、ヘタを切る」
そのまま教えながら丁寧に切り終えると、腕の中の佐伯が思い切り床にしゃがみ目の前からいなくなった。
かと思うと、カウンターの向こうでソファに飛び乗っている。
人が丁寧に教えてやったというのに、なんだあの態度は?
最初はその光景にただ「?」を浮かべるばかりだったが、よく考えれば俺は…
佐伯に、抱き着いた?
もしかして佐伯は怖かったのかもしれない。あんなことがあった後だ、人に触れられるのが嫌だったかもしれない。
(うっかりしてしまった)
謝ろう、とリビングで丸くなる子ウサギの元へ、恐る恐る向かった。