兵鳳−つわものあげは−

□拾壱 鳳蝶が夜に舞う
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「…早く、行かないといけないのに、な…」

無意識の内に、俊孝は拳を握り締めていた。

届きそうで、届かない。
それが、凄くもどかしい。

「…急(せ)いては事をし損じますよ。焦ったからって、早く行ける訳ではありません」
「わかってる!…わかってるさ」

こちらに近付きながら、幼子をなだめるかのように言う辰沙に、苛立ち気味に俊孝は言い返す。
辰沙は土間から床に上がり、俊孝の隣に腰を下ろした。

「…此処から船で讃岐(さぬき)に渡れば、屋島はすぐですものね。若がもどかしくなるのも、わかります」

平家は今、讃岐国の屋島に陣を張り、内裏を置いているという。
讃岐は本州と陸続きでないので、陸路を使って行く事ができず、船を使うしかない。
それができないとなると、船が出せるまで待つ他ない。

「…雨をこんなに憎いと思うなんて、今が初めてかもしれない」
「同感です。早く天気が落ち着くといいんですが…」

雨音が、心なしか少し大きくなった気がする。
今日の内にはやみそうにない。

「…しばらくゆっくりしろという事なんだろうか」

皮肉るように俊孝が言う。

「では、有り難く天の善意を受け取っておきましょうか」

笑って返す辰沙に釣られ、俊孝の頬も緩んだ。

「そうするしか、ないな。…とは言え、暇だ」

後ろに倒れ、俊孝は寝転んだ状態になり、何気なく懐に手をやると固い物が触れた。
少し出して、それを確かめる。

「…あ」

光風が貸した、笛だ。
俊孝の脳裏に彼女の事が思い出される。

笑顔が可憐で可愛らしくて、一緒にいると快い気分になって、笛を吹くと優しい調べを奏でて、箱入りなのかと思ったら意外と行動的で、それで…。

源氏の姫君で。

「…っ」
「どうしたんですか、その笛」
「…!」

辰沙の言葉に、俊孝はどきりとした。
笛など吹けないし、持ち歩く事もなかったから、怪訝に思ったのだろう。

動揺を懸命に隠しながら、俊孝は応える。

「べ、別に!…都で世話になっていた者に、ちょっと…」
「餞別として貰ったという事ですか?」
「え、あ…。…まぁ、そんなとこだ」

厳密に言えば貰ったという訳ではないが、そういう事にしておくとしよう。

「ふぅん…。もっとよく見せて下さいよ」
「え!?」
「いけませんか」
「…大事に扱ってくれよ」

そう言って俊孝は、起き上がりながら錦の袋に入った笛を差し出した。


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