兵鳳−つわものあげは−
□拾壱 鳳蝶が夜に舞う
2ページ/10ページ
「…早く、行かないといけないのに、な…」
無意識の内に、俊孝は拳を握り締めていた。
届きそうで、届かない。
それが、凄くもどかしい。
「…急(せ)いては事をし損じますよ。焦ったからって、早く行ける訳ではありません」
「わかってる!…わかってるさ」
こちらに近付きながら、幼子をなだめるかのように言う辰沙に、苛立ち気味に俊孝は言い返す。
辰沙は土間から床に上がり、俊孝の隣に腰を下ろした。
「…此処から船で讃岐(さぬき)に渡れば、屋島はすぐですものね。若がもどかしくなるのも、わかります」
平家は今、讃岐国の屋島に陣を張り、内裏を置いているという。
讃岐は本州と陸続きでないので、陸路を使って行く事ができず、船を使うしかない。
それができないとなると、船が出せるまで待つ他ない。
「…雨をこんなに憎いと思うなんて、今が初めてかもしれない」
「同感です。早く天気が落ち着くといいんですが…」
雨音が、心なしか少し大きくなった気がする。
今日の内にはやみそうにない。
「…しばらくゆっくりしろという事なんだろうか」
皮肉るように俊孝が言う。
「では、有り難く天の善意を受け取っておきましょうか」
笑って返す辰沙に釣られ、俊孝の頬も緩んだ。
「そうするしか、ないな。…とは言え、暇だ」
後ろに倒れ、俊孝は寝転んだ状態になり、何気なく懐に手をやると固い物が触れた。
少し出して、それを確かめる。
「…あ」
光風が貸した、笛だ。
俊孝の脳裏に彼女の事が思い出される。
笑顔が可憐で可愛らしくて、一緒にいると快い気分になって、笛を吹くと優しい調べを奏でて、箱入りなのかと思ったら意外と行動的で、それで…。
源氏の姫君で。
「…っ」
「どうしたんですか、その笛」
「…!」
辰沙の言葉に、俊孝はどきりとした。
笛など吹けないし、持ち歩く事もなかったから、怪訝に思ったのだろう。
動揺を懸命に隠しながら、俊孝は応える。
「べ、別に!…都で世話になっていた者に、ちょっと…」
「餞別として貰ったという事ですか?」
「え、あ…。…まぁ、そんなとこだ」
厳密に言えば貰ったという訳ではないが、そういう事にしておくとしよう。
「ふぅん…。もっとよく見せて下さいよ」
「え!?」
「いけませんか」
「…大事に扱ってくれよ」
そう言って俊孝は、起き上がりながら錦の袋に入った笛を差し出した。