兵鳳−つわものあげは−
□拾壱 鳳蝶が夜に舞う
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部屋を覗いて、名前を呼ぼうとした。
「延…、――あ」
そうだ。
彼はもういないのだった。
家具が多少置いてあるだけで、人の気配が今では一切ない部屋。
彼が此処を発って随分経つというのに、自分は毎日毎日何をしているのだろう。
光風は、日々彼をこうして呼ぼうとしてはいない事に気付く。
…ちゃんと自分の中でも別れる事ができていないようだ。
彼はもういない。
わかっているはずなのに。
…心に穴が空いてしまったかのような感覚がある。
光風は自分の部屋に戻って腰を下ろす。
「…はぁ」
溜息が自然と漏れる。
五月雨が外で力強い音楽を奏でている。
――彼は今、どの辺りにいて、何をしているのだろう。
曇天を見上げつつ、光風はそんな事をぼんやり考えた。
考えずにいられなかった。
書物を読んでいても、気付いたらそっちについて考えていたりする事も珍しくない。
彼が去った後の部屋で見付けた腰刀を引っ張り出す。
鞘に刻まれた模様を撫でた。
「――延寿」
その名を呟いてみる。
…会いたい。
また、彼の顔が見たい。
この穴は、そうする事でしか埋められない。
…愛しい。
雨が、一段と強くなったような気がした。
◆◇◆
今日も雨。
皐月も半ばとなった今日も、じめじめとした空気が小屋の中にも漂っている。
「…これじゃ船なんて出せませんねぇ…」
右目を前髪に隠した青年――辰沙が、戸を少し開けて外の様子を見つつ言った。
「今日も…無理なのか?」
俊孝の言葉に辰沙が頷く。
「そうか…。また、足止めか」
俊孝は溜息をついた。
辰沙の言葉を聞いて、外に出ようか迷っていた商人達も、大人しく諦めた。
五月雨の季節とは言え、こうも雨ばかりでは気が滅入る。
こうして足止めされるのも何度目だろう。
御蔭で思うように進めない。
――光風の屋敷を出た後、俊孝は辰沙と合流した。
辰沙が言うには、都にいた間世話になっていた商人が西国に行くので、それについて行き、自分達は平家と合流しようとの事。
地理に博識な商人なら、道に迷う心配も少なくて済むだろうという事だ。
また、辰沙が世話になっていた商人は平家贔屓の面も持っていた。源氏が勢力を伸ばしてきているとは言え、平家に味方する者も未だおり、人目を引くような容姿の辰沙が世話になれたのも、その御蔭だった。
今周りにいる商人達も、多くが平家贔屓だった。