兵鳳−つわものあげは−
□玖 狐の恩返し
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「ふぅん…でもお前、都に来た時に笛吹いていなかったか?」
俊孝は、義経の屋敷に行った時、光風の笛で彼の妾の女性――静が歌っていたのを思い出しながら言う。
「あの時は…。…あの笛はね、静に借りた物よ。戯れに吹きたくなったのだけれど持っていなくて、そしたら、貸してくれたの」
「…そうか」
納得してそちらを見ると、光風は俯き加減で、指をいじる手元を見ている。
その悲しげな眼差しに、俊孝は胸の奥が少し締め付けられる感覚を覚えた。
例の義経から貰ったという笛は、彼女にとってとても大切な物なのだろうという推測はすぐに立つ。
自然と言葉が口をついた。
「その笛…俺が取りに行って来ようか?」
「…え?」
光風が驚いたような顔をこちらに向ける。
「荷解きとかで、この屋敷の者らはまだ忙しいのだろう?なら、暇な俺くらいしか、すぐに苑部の屋敷に行ける者はいない」
「でも」
「遠慮するな。…俺はお前に助けられてばかりだから、恩返しをしたいんだ。それに、たまには外に出るのも悪くない」
最近屋敷の外に出てないからな、と笑いながら俊孝は続けた。
「じゃあ……母様にも聞いてみるわね」
◆◇◆
「……」
川の水を美味しそうに飲む馬を、俊孝はぼんやりと眺めていた。
あの後、(仮にも)客人に笛を取りに行かせることを、やはり光風の母も反対した。
だが、結局、俊孝の恩返しがしたいという言葉に押し切られる形でありながらも、折れた。
翌日、馬を借り、俊孝はこうして苑部に向かっているのだった。
「…ふぅ」
自分も川の水を手ですくって口に運び、息をつく。
…自分は何をしているのだろう。
そんな考えがふと浮かぶ。
自分の中で、何かが揺れる。
何故、自分は彼女に此処までしてやろうとしているのか。
彼女は――源氏の姫なのに。
自分は平家、彼女は源氏。
互いが敵であることは、誰にだってわかる。
無意識のうちに、俊孝の左手が腰に下げた夕焼に触れる。
…なのに。
「…っ」
胸の奥が苦しくなる。
彼女の笑顔が脳裏を過(よ)ぎる。
俺は―――。
ばしゃん。
思考を止めさせるかのように、俊孝は顔に水を浴びせた。
ばしゃん。ばしゃん。
何度も、何度も。
冷水を顔に浴びせる。
頬が冷たくなり、目が痛くなってきたくらいで、止めた。