Novel

□死にたがり。
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彼は私の住んでいるマンションの、向かいのマンションの7階に住んでいる。

彼は毎日ベランダに出ては、柵の上をまたがり落ちようとする。何を思ったか、しばらく硬直した後に部屋に戻る。

私は彼のそんな姿を見るのが大好きだった。人間の抱えている闇を、傍観している楽しさ。私はそんな風にズルい女だ。

彼は高校生くらいで、私は疲れた顔をして少しやつれている25歳。

何も収穫のない、単調や平凡より少し価値観のズレた生き方をしている。だから、他人の不幸は蜜の味だ。

死のうと試みる彼を見ると、私は気がつかぬうちに微笑を浮かべている。その刹那の表情を、絶対に見たくない。

だって気持ち悪いから。私だって人間だから、醜い自分を否定したくなる。向き合いたくはない。だから、逆さの鏡に映されている彼は面白い。


いつも通りの日だった。今日は雨が降り続いていた。偏頭痛のため、会社も休んだ。床に転がりながら、自堕落な格好でTVに向かう。

時計を確認する。丁度彼がベランダに出る時間だ。名前も知らない。顔も良く分からない。ただ、黒髪が不潔な男の子。不幸を全体から放っている感じ。

私はベランダに立ち、彼が出てくるのを待った。雨の中、蒸し暑かったので冷凍庫からアイスを取り出す。

ベランダに小さくうずくまりながら、私は彼の家のベランダを見つめた。

やがて、彼が音も無くドアを開けて、ベランダに立つ。いや、正確に言うと音は聞こえなかった。

彼は柵の前に立ちながら、そっと雨を見つめる。目の前に落ちる無数の雨を、一つ残らず全て見つめている気がした。

そして彼は柵に手を掛け、私の方を見た。どきっとした。もしかして、気がつかれたのだろうか。

彼は見つめた。私の事を。見透かされているようで鳥肌がたつ。

私の階を指さしながら、彼は部屋に戻る。姿が見えなくなった。カーテンが閉められる。薄暗く、不吉な色をしたカーテンだ。

私は残念に思いながら、食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に捨てた。

私は、あたりつきのアイスしか買わない。けれど、当たったことはない。当たらない確信がついているけれど、当たると言う希望に想いをなすり付けたいのだ。

インターホンが鳴った。肩を驚かす私。もしかして、職場の人が心配して来てくれたのか?

小走りでドアの近くに行き、開く。

チェーンに綺麗な手が勢いよく掛かる。金属を叩いた様な音をたてながら。

「うわっ」

私は一瞬の恐怖に腰が抜けた。

ドアの隙間から、黒髪と目が私を覗く。

「開けて下さい。開けて下さい。お願いします」

チェーンを乱雑に動かしながら、雑音を出す。

「な、何」

チェーンを動かすのをやめ、次はドアを蹴り始める。

「ねえ、何してたの。いつも何してたの。僕の事見てましたよね。ねえ、何してた?」

命の宿らない声が、心に宇宙を抱えているかのように思わせた。気が違った目をした彼に、私は心が安らぐ。

立てるようになると、蹴り続ける音をやませるように、私はドアを開いた。

「ごめん。君を見てました」

そう言うと、彼は安堵の表情を浮かべ、エレベーターに続く廊下を歩いて、私の部屋まで来た道を帰ろうとした。

「ね、ねえ、君!」

濡れた体から落ちる雫と、彼は振り返る。

「名前は?」

気だるそうに首を掻きながら、睫毛にかかる前髪の間から私を見つめて、静かに言った。

「千葉」

「千葉君・・・。下の名前は?」

「無いです」

猫背の背中を見送った。彼はエレベーターに乗っても振りかえらなかった。私の部屋、アレで分かったんだ。

私はそれから、彼をもっと知りたくなった。そんな収穫があった。私はこれから彼の自殺未遂を、堂々と傍観することができるようになったのだ。

彼も私も、バグったゲームのように、苛立たしい電波を放った人間だった。
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