Novel
□儚く咲いて
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木陰に隠れた影を好奇心で見たくて、私は無意識にそこに近づいた。
この樹木は、他の樹木と比べてもとりわけ大きくて、暑い日差しを遮るのにうってつけの場所だった。
私はいつもここにいる。
ここで感じる風は、他のとは違う気がするのだ。甘くて爽やかな匂いがする。風が、遠くで小川の流れる音を運んできてくれているような、そんな気がする。
さて、そんな私の特等席に、今日は見知らぬ誰かが座っている。
規則正しい寝息をたてながら、清潔に整えられたサラサラで茶色い髪を風にそよがせ、気持ちよさそうに眠っているのだ。
「綺麗な顔」
私は独り呟いた。
彼の寝顔はあどけなさが残っていて、それに加えて非常に整っていた。
目、鼻はほりが深く、鼻梁もある。私はつい触れたくなってしまった。
よく見ると、睫毛が長くてカールしている。
まずは手を伸ばし、そっと瞼に触れてみた。彼の眼がぴくりと動く。起こしてしまったらどうしよう。気が付いたらどうしよう。私、変な人に思われるんだろうな。
それでも触れたい衝動は抑えきれず、そっと髪の毛に触れてみた。
"触れたい"という本能の嵐からは、決して逃れられないのである。
その刹那、彼は瞳を開けて私の手首を強く掴んだ。
「誰」
低めの声。よく響いて、耳から離れない。
「え」
私の方が驚いてしまい、質問に返答することができなかった。彼の手はわずかに汗ばんでいる。
「だから誰」
2回目の問いかけで、ようやく口が開いた。
「松永小百合。っていうか、ここ、私の特等席なんだけど」
彼の瞳は黒くて深かった。飛び込めそうだ。そして、ずっと出口が見つからなそう。
「ああ、ごめん。気持ちよかったから、つい」
瞳を開けた彼の顔は、寝ている時より妙に大人びていた。その裏に、ひどく幼い何かを感じられた。
「貴方は?」
「ひろもとながれ。広い本に静まるって意味の凪ぐで、広本凪」
「ふーん。素敵な名前」
珍しい名前だったが、美しい響きがあった。その名の通り、彼は時のように静まっていた。
「それじゃあ」
凪は立ち上がって、無愛想に去って行った。背中は寂光を放っているように見えた。照りつける太陽のせいでだろうか。
華奢なあの体は、一瞬で見えなくなってしまった。