小説

□火曜日記念日
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頬が痛くて目が覚めた。卓袱台に突っ伏していたせいだ。

(…あのまま寝ちゃったんだな)

おさまっていた痛みがまた疼いた気がした。
知らなくていいはずの痛み。
「――っ、う〜……あーあーあーあー!」
「うるざいよ山田っ!!」
即座に飛んできた苦情に、やり場のない感情を発散させるにはいささかこの部屋は不向きだと悟る。
外だったら気分も晴れるかも。そう思い立ったところで奈緒子は思い出してしまった。
「しまった、今日は…仕事だ!」
確認した時刻はもうギリギリだ。素早く身支度をこなし奈緒子は外へ飛び出した。
……はずだった。ドアは途中の障害物に当たって完全には開いていない。
ドアの隙間から覗きこむとそこには障害物―――上田がいた。

「よ、よお久しぶりだな…」
額の痛みを必死に堪えている、といったふうに上田はぎこちない笑みを見せた。
「…きのう会ったばっかじゃん」
昨日の今日で少なからず込み上げるものがありそうなところだが、合いも変わらないコントのような流れのせいだろうか、奈緒子も上田もいつもの調子だ。
「YOU、ドアは勢いよく開けるなと学校で習わなかったのか」
「あぁー。そういえば習…うわけないだろターコ!ってああ!!」
ようやく大事なことを思い出す。
「どけ上田!急いでるんだ」
「いやYOU、今日はちゃんと‥!」
「あとで来い!!」
上田の横をすり抜けて、返事を待たずに奈緒子は駆け出した。
上田にご飯をたかる、という選択肢もあるにはあったが仕事の切れ目が食料、ゆくゆくは命の切れ目に直結していく。そんな一時しのぎには頼ってはいられなかった。
腹がへっては戦は出来ぬ。しかし、お腹を満たすためには戦にいくしかないのだ。理不尽だが。









「あーー疲れた」
どうにかこうにかショーをこなした夕暮れ時の帰り道。
「首もつながったし…エライぞ奈緒子!」
行きに駆け抜けた商店街を、今度は軽やかに歩く。池田荘はもうすぐだ。

そこでふと、出がけに上田に放ったセリフを思い出した。
それをあいつが鵜呑みにしたら――

家に帰れば上田がいる、なんて

「あーあーゾッとするなぁ」


狭い階段をあがり、いつものナンバーを押して、少し口元を引き締めてドアを開けた。

「あれ……」

中は真っ暗だった。弁当はもちろん勝手に寝ている大男の姿もない。

「………いないのか」
淀んでいる空気に顔をしかめながら奈緒子はフラフラと部屋へ入っていく。その時電話が鳴った。


電話の相手は上田だった。

――なんだいたのか

――今から行く、待ってろ

――…君に用があるんだよ


ようやく畳に腰をおろせたのに、なぜだかあまり疲れがとれない。それどころか胸騒ぎさえする。
外は遠くで電車の音が聞こえるだけで、静かな夕暮れだった。











コンコン。
それが何の音なのか、最初奈緒子はわからなかった。
ドアの向こうから聞こえた「山田?」の声で、ようやくそれがノック音だと思い当たる。
そういえば、この部屋のドアがノックされたのは最近の記憶にはないな。
カチャリ、とドアを開けると、上田が静かに佇んでいた。その顔つきはいつになく真摯だ。

「今日は…ちゃんと用があって来た」
暫しの沈黙の後、上田はそう切り出す。
用ってなんだろう。手にはコンビニの袋はぶら下がってないし。
でもきっと事件の話じゃない気がする。これはただの勘だけど。
と、その時上田が一歩詰め寄ってきた。思わず奈緒子は後ずさる。

「俺は」

また一歩、こちらに歩を進める。
「今までずっと」

また一歩。このままだと色んな意味で土足で上がり込む勢いである。
奈緒子は焦った。

「君のことを…!」
「あんら、せんせい」


え、という一音を綺麗にハモらせて奈緒子と上田は声の主を見た。
そこには大家・ハルが気味の悪い笑みを浮かべて立っている。

「お久しぶりね。そういえばせんせい、まぁーた山田のやつ家賃を…あら?」
すでに神速で紙幣を取り出していた上田の、そのただならぬ表情に流石のハルも暫し固まる。怒り…とまではいかないが、その顔は切羽詰まっていてなぜか僅かな殺気さえ感じる。いつもの温和な表情しか知らないハルにとってそれは衝撃だった。
その手に握られているのは催促分を遥かに越えた額だったが、それを伝えるための口も開かれるのを拒んでいるようである。

ようやく「どんも…」とだけ発した時には、もうそこに二人の姿はなかった。
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