SS(狐笛のかなた)11/9/4更新

□春遠き
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昨夜遅くから、しんしんと降り続けた雪が野山を白一色に塗り替えていた。
林の梢に積もった雪が朝日を浴びて緩み、ドサドサと落ちてくる隙間を縫って赤茶色と白の狐がもつれあいながら駆け抜けていく。
平たく均された雪の上に、判を捺したように二頭の足跡が連なって文様が描かれる。

ぽーん、と跳ねた白い狐に赤茶色の狐が飛びかかり、二頭は一つの毛玉の塊となって雪の上に落ちた。

「――野火、降参よ、降参。もう息が切れて走れないわ」

明るい笑い声を響かせながら白狐が娘の姿に転じた。
娘――小夜は立ち上がると、じゃれつくように自分の上に乗っていた狐をひょいと抱き上げ、耳や鼻面についた雪をはらってやった。
彼女の腕の中から赤茶色の狐が飛びおりる。
狐が身震いをすると飛び散った雪が辺りに光を撒き散らした。

「小夜はずいぶん走るのが早くなったな」

狐から人の姿に転じた野火が笑いながら、小夜の髪についた雪を指で摘まむ。

「そう? でも、野火にはかなわないわ」

満更でもない顔で小夜が微笑む。
野を駆け、跳ねまわるだけなのに、腹の底から愉快になれるのは、この身の全てで生命の力を感じているからだろう。

衣についた雪を手ではたき落していた小夜は、強い視線を感じて顔をあげた。
彼女の目から逃れるように慌ててそっぽを向いた野火の固くこわばった顔を小夜は何故か怖いと思った。
ほんのつかの間の沈黙がやけに長く感じられたのは、静まり返った白銀の世界のせいだろうか。

「――どうかした?」

小夜の問いに野火が眉を寄せた。

「……小夜が野鼠みたいに見えた」
「――え?」
「違う。小夜を見ていたら、野鼠を見つけたときみたいに、腹の中が熱くなった」

野火が手をのばす。
小夜の心臓が高鳴る。
身を引こうとしたが、釘を打たれたかのように一寸たりとも身体が動かなかった。

「おれは小夜を傷つけるかもしれない」

野火の指先が彼女の頬を撫でる。
互いに凍えて、冷え切っているはずなのに、触れた指も触れられた頬も、燃えあがるような熱を感じさせる。

小夜は目を閉じると深く息を吸った。

「――わたしは傷ついたりしないわ」

不思議そうにこちらを窺う野火の薄い色の瞳を見ているうちに、小夜の心がふつふつと温まっていく。

彼の抱えているのと同じ不安が彼女の胸にもあるが、その正体を小夜は知っていた。
野で生きる知識では到底野火にかなわないが、こういうことには世知に長けた小夜のほうが詳しい。

「……そりゃ、すこしは痛いかもしれないし、怖いけど」

村に居たときに年嵩の娘たちから聞いた閨の話を思い出して小夜は顔をしかめた。
が、彼女の言葉に眉を曇らせる野火を見て、慌てて言い繕う。

「でも、大丈夫よ! ……わたしはきっと、野火をもっと好きになる」

頬に当てられたままの野火の手を小夜が両手で包みこむ。

「――今よりも、ずっとずっと」
「今よりも好きになったりできるものなのか?」

心許なげな彼を励ますように小夜がコクリと首を縦に振った。
野火が身をかがめ、小夜の顔に影が落ちた。
陶器のように冷たくなった鼻と鼻が触れあい、唇が重なり、やがて離れた。

いつか、お互いをより深く知る。

でも、まだそのときではないのを二人は何となく感じていた。

「――冷えてきた。そろそろ帰ろうか」
「そうね」

照れくさそうに笑みを交わすと、どちらからともなく手を繋ぎ、二人は歩き始めた。
 
見る者とてない山深い地の雪の野原に残されていた小さな狐の足跡が、寄り添い歩く二人の人間の足跡になり、また小さな足跡に変わり、不意に途絶えた。
 
春まだ遠いある日のこと――。


<終>

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