SS(12/12/13更新)

□昼餉
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(ああ、おかあさんが帰ってきたんだ)

エリンは、枕に頭を載せたまま、トントンと何かを刻む小気味よい音にしばらく聞き入っていた。
目を向けていなくても、母が厨で食事の支度をしている姿が浮かんでくる。
大切な<牙>を任せられている母は、娘が熱を出したからと言って、ずっと付き添っていることはできない。
食事が終わったら、また<イケ>へ戻らなければならない。

いつまでもこうしていてはいられない。
起きて、手伝わないと。
そう思うのに、身体は重く、力が入らない。
自由にならない自分自身がもどかしく、エリンは思わず声をあげた。

「──おかあさん」

自分自身の声でエリンは、ハッと眠りから覚めた。
大きく開いた目に飛び込んできたのは、アケ村の家のものではなく、イアルと共に暮らしているこじんまりとした家の天井だ。
板戸に遮られてエリンの声は届かなかったようで、土間からの物音は相変わらず続いている。
イアルは、今朝からヤントクの工房で作業をさせてもらうと言って出ていった。
昨日、帰り際に様子を見がてら昼餉の支度をしに来ると言ってくれていたから、きっとヤントクの妻のトキなのだろう。
板戸の隙間から温かい空気と共に漂ってきた煮炊きの匂いが、空腹を意識させ、エリンは何となくホッとした。

起こさずにいてくれた気遣いに甘えることにして、エリンは薄れゆく夢の欠片の中の懐かしい姿を繋ぎとめ、記憶に焼きつけようとでもするかのように、目を閉じた。

母の夢を見ることなど久しくなかったが、ここのところ、母のことを思い出すことが多かったから、こんな夢を見たのかもしれない。

母はどれだけ心細かったんだろう……。
たったひとりで。

(──おかあさんは、それでも元気におまえを産んだんだろう)

イアルの言葉を思い出し、エリンの胸がちくりと痛んだ。

彼の言ったことは正しい。
だが、何となくくすぶるものがある。
──あんな風に言われては、弱音を吐くこともできないではないか。

厨からの音が止み、控えめに板戸が開いた。

「起きたか」
「──イアル」

意外な声に思わず身を起こそうとしたエリンをイアルが手で制す。

「……トキさんが来てるのかと思ってた」

エリンがバツの悪そうな声をあげる。

「来ると言ってくれたんだが、昼餉の支度はおれでも出来るからな」
「仕事は終わったの?」
「まだだ」

食べ終えたらまたヤントクの工房に戻るのだろう。
自分が寝ている夜具の傍らに座卓を置き、食事の用意を整えていくイアルをエリンは言葉もなく見つめていた。
気の利いた励ましの言葉を言うわけではない。

それでも、そばに居てくれる。

エリンは夜具の中でそっと腹に手を置いた。

幼い頃に、寝込んだエリンを見下ろす母の影と、熱で火照った額に置かれた麝香の匂いをまとったひんやりとした手の心地よさがふと思い起こされた。

ひとりではない。

不意に鼻の奥がツンと痛んだ。
こみ上げてくる涙をこらえようと、エリンは煮えた鍋がクツクツと立てる音に耳を澄ませていた。


<終> 

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