SS(12/12/13更新)
□願い
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板の間に腰をおろしたエリンの輪郭が澄んだ光の中に浮かび上がる。
ひっそりと口ずさむ子守唄は、奥の部屋で鑿を振るうイアルの耳にまでは届かないが、その唇の動きから紡がれる歌声が聞こえてくるかのような静けさが部屋に満ちていた。
ジェシが生まれてからもうすぐ1年、王都で過ごしたのを含めて3度目の夏を迎えようとしている。
一歩外に出れば昼下がりの陽光は眩しいくらいだが、家の中の暗がりはひんやりとして、開け放した戸や窓から入る光は心地よく感じられた。
遊び疲れて腕の中で寝ついたジェシの小さな背を撫でるエリンの手の動きが、イアルの記憶の底をくすぐり、ふと思い浮かんだ光景を追うようにイアルはぼんやりと彼女の手元に目を向けていた。
何気なく顔をあげたエリンが動きを止めた彼に首を傾げて見せる。
「どうかした?」
声を潜めた彼女の問いかけを唇の動きで読みとったイアルは、開きかけた口を閉じると大股に部屋を横切り、彼女の隣に腰かけた。
「──ちょっと思い出したんだが……」
抑えた低い声で言いかけたイアルが言葉を濁す。
緑の目に続きを促された彼は苦笑を浮かべ、ジェシの背に置かれた彼女の手に視線を落とした。
「<お祓い葉>を覚えてるか?」
唐突な彼の言葉に、一昨年の龕灯祭りの宵を思い出しながら、エリンが不思議そうな面持ちでうなずく。
「……あのとき、お前に買ってもらったのに、買ってやらなかったな」
今の今まで奢られたことにすら思い至らなかったのだろうか。
バツの悪そうな彼を丸い目で見返したエリンが小さく噴き出す。
何を今ごろになって、と呆れながらも、その律義さが妙におかしかった。
あの夜、イアルのために<お祓い葉を>買ったが、あれは自分自身のためでもあった。
彼が幸せになることが、自分の願いなのだから、あれ以上に願うのは欲張りすぎるというものだろう。
しかし、そんな思いを口に出すのは何となく憚られた。
「……いいのよ。わたしが、したかっただけなんだから」
唇に笑みを残したまま柔らかく言うと、腕の中のジェシを起こしてしまっていないかを確かめるように、その背をさすった。
深い夢の中に落ちたままのジェシの頬が窓から差し込む光に艶々と輝いて見える。
つかの間も休むことなく動き回っていたさっきまでとは打って変わったどこか厳粛ささえ感じさせる寝顔に安堵し、エリンは思いを巡らせた。
言われてみれば、幼い子をなだめ、寝かしつけるこの仕草は、1年間の息災を祈り、<お祓い葉>で背を払うのに似ているのかもしれない。
無意識のうちに繰り返される小さな願いの中で子どもたちは育っていくのだ。
黙りこくった彼女の背にイアルが手を伸ばした。
大きな手が、迷うようにしばらく止まっていたが、不意にぽんぽんと彼女の背を払う。
はっと顔を上げたエリンにイアルが照れくさそうな笑いを見せた。
片手を彼女の背に置いたまま、イアルがもう一方の手をジェシの背にあるエリンの手に重ねた。
──健やかに過ごせますように、悪いことが起きませんように、幸せになりますように。
願いは、それだけ。
──幸せになりますように。
大それた願いなのかもしれない。
けれども、そう願い続けていたい。
穏やかで平凡な日々をただ積み重ねて。
「……今度、埋め合わせをしないとな」
頭の上でぽつりと声が漏らされる。
神妙な顔で思案する彼を見上げて、エリンは困ったような微笑を浮かべた。
<終>