SS(12/12/13更新)

□窓辺にそよぐ
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イアルの鑿が、昼間よりも控えめな音を刻む。
それが途切れたわずかな隙間をエリンの膝の上で布が滑る微かな音が埋めていく。

ジェシを寝かしつけて布団から抜け出してきたエリンが、奥の部屋で作業するイアルと小さな灯火を分け合うようにして、寝る前の一時を過ごす──いつもどおりの静かな夜だ。

エリンが、日に焼けて色褪せた窓布を作り直すと言ったきり、二人の間に会話がないのもいつものことだった。
燭台の灯りを受けた針がきらめくごとに、ただの布が窓布としての形を整えられていく。
布の端を目立たない色の糸でかがっていたエリンがぐるりと周囲を縫い終え、色とりどりの糸の束に伸ばされた彼女の手が惑うように動き、止まった。

イアルは、エリンが糸の束とにらめっこしたまま固まっているのを視界の端に留めていたが、しばらく経っても動こうとしないのを見かねて、ようやく声をかけた。

「──どうかしたのか?」 

声をかけられて始めて、物思いに耽っていたことに気づいたのか、エリンが、はっと顔をあげる。

「……刺繍しようと思ったんだけど、いい図案が思いつかなくて」

はにかむような笑みを浮かべた彼女に、イアルが苦笑を返す。

図案についてあれこれ思いを巡らすのは指物師の彼にとっては馴染み深いことだ。

「そうか。邪魔して悪かったな」
「ううん。ちょっと他の事を考えてたから、声をかけてくれてよかった」

わずかに表情を曇らせた彼女にイアルが眉をあげた。
しばらく間を置いて、堪えきれなくなったようにエリンがぽつりと言葉を漏らした。

「──おかあさんは、いつか、ああなることを知っていたのかな、って……」

思いの外に沈んだ声に、自分自身でも驚いたのか、エリンが軽く首を振り、声の調子を変えると、言葉を継いだ。

「ほら、料理や裁縫ができたからジョウンおじさんの家に置いてもらえたでしょ。──おじさんは、わたしが何も出来なくても置いてくれたと思うけど。……だから、いつでもわたしが独りで生きていけるようにおかあさんは、色々教えてくれてたのかなって……」

最初の勢いとは違って、語尾は消え入るように弱々しく、イアルは無言で鑿を置いた。
大公の闘蛇を預かり、闘蛇衆として生きていた以上、エリンの母には、その責を負わされることも覚悟していただろう。
後に残される娘が、村で生きていくのに不自由のないように、しつけたと考えるのは自然のことだ。
だが、常にそれだけを念頭に置いて暮らしていたと考えるのは、あまりにも寂しかった。

膝の上の布に目を落としたままのエリンにイアルが静かに声をかける。

「……楽しかったんじゃないか?」
「──?」
「おまえに家事を教えて、一緒になにかを作ったりするのが」
「……そうかな?」

男たちのように闘蛇衆の仕事をしながら、女手ひとつでエリンを育て、家事を教えるのは並大抵の苦労ではなかっただろう。
それを楽しいと思える余裕はあったのだろうか。

納得いかないように考えこむエリンに背を向けると、イアルは指物の道具を入れている箱から木の塊を取り出した。

刻み目が彫り込まれた紡錘型の塊を手渡されたエリンが小首を傾げる。

「何?」
「ジェシが何か作りたいと言うから、作らせた。魚だそうだ」
「これが?」

イアルが苦笑しながらうなずき、エリンはまじまじと木の塊を見つめた。
そう言われると、目らしきものもあるし、刻み目は乱雑ながらも鱗と鰭のように見え、魚と思えなくもない。

「あなたが教えたの?」
「まさか。あれは人の言うことなど聞かないからな。教えようとしても勝手に進めたがるから、放っておいた」

父の傍らで見よう見真似で端材を削りだし、一心に模様を刻むジェシの姿が目に浮かんだのか、エリンはフッと笑みを浮かべると両手の中で魚を転がした。

小魚の群れは、イアルが好んで彫る模様のひとつだ。
遠くからでは、ひとつのうねりにしか見えないが、群れを形成する小さな魚それぞれが意思を持ち、異なった姿形をして、泳いでいる。
まるで、人の生きざまのようなその有り様を木の面に再現しようとする父の姿を見ていたから、ジェシは魚を選んだのだろうか。
エリンはそっと、粗いながらも懸命さの感じられる鑿の跡に指先を滑らせた。

「まだ、ちゃんとやすりをかけてないから、ささくれに気をつけてくれ」 
「ええ」

自分の手の中にあるジェシの魚に目を注ぐイアルの穏やかな眼差しに、遠い記憶を呼び戻され、エリンの鼻の奥がつくんと痛んだ。

料理をする母の背にへばりついたり、衣を縫う母の傍らで、その針運びを一心に眺めたのは、母と少しでも一緒に居たかったし、家事を覚えて、忙しい母に楽をさせてあげたかったからだ。
そんな自分に母は穏やかな眼差しを向け、根気よく教えてくれた。

きっと、ただの悲壮な心構えだけではなかった。
決して長くはなかったけれど、母子ふたりのかけがえのない時間を母も楽しんでいたと思うと、胸の奥がじんわりと温まるような気がした。

軽く鼻をすすると、エリンはイアルにジェシの魚を返した。

「……わたしも魚を刺繍しようかな」

イアルが何か言いたそうに口を開きかけたが、黙ってうなずきを返した。
道具入れにジェシの作品を仕舞いながら、イアルがなにかを思い出したように眉を寄せる。

「本当は完成するまで見せないつもりだったみたいだがな」
「大丈夫、見てない振りをするから。お芝居はあなたよりも上手にできると思うわ」

苦笑いを浮かべたイアルに微笑んで見せると、エリンは糸束に手をのばした。


*  *  *  *


さあっと涼やかな風が部屋の中を通り過ぎて、真新しい窓布がひらひらとひるがえる。

「おかあさん、魚が泳いでるみたい!」

真新しい窓布に気づいたジェシが、はしゃぎ声をあげて寝巻きのまま、厨で朝餉の支度をするエリンの方へと駆けていく。

「ええ、素敵でしょ」
「ぼくも魚、作ったんだよ!」
「まあ、そうなの」
「うん! おとうさん、ぼくの魚、出して! いますぐ、おかあさんに見せたいから!」

ばたばたと駆け戻ってきた息子にせがまれてイアルが、仕方ないな、と重い腰をあげる。
厨に立つエリンの目配せに気づき、イアルは微かな苦笑を返した。

竈から香ばしい匂いが立ち込める。
朝日に照らされながら寄り添うように泳ぐ三匹の魚を仰ぎ見て、イアルは目を細めた。


<終>

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