SS(12/12/13更新)

□兄と妹
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不安を覚えるくらいに小さくて軽い赤ん坊をイアルはぎこちなく抱いていた。

窓から射し込む傾きかけた日の光が、血色の良い赤ん坊の顔を艶々と照らし出し、うっすらと生えた産毛を輝かせている。

ジェシが生まれてからのここ数日、午後の仕事を終えたイアルの足は、自然と学舎に向いていた。
毎度馬車を頼むほどの経済的な余裕はないから、徒歩で往復し、帰りがてらに湯屋に立ち寄るのが日課になっている。
エリンは、まだ日の大半を床に臥せって過ごしているが、むくんでいた顔も随分とすっきりとしてきていた。

残暑の名残のぬるい風が窓布をそよがせる。
イアルの仕事やジェシの体調についての簡単な会話が終わり、部屋には沈黙が落ちていた。

「――言い忘れていたことがあるんだけど……」

半身を起して枕に背をもたれさせたエリンが、そう言いさして、口を閉ざした。
居心地悪そうに座りなおす彼女の顔には、ありありとためらいが浮かんでいる。

「キィノさんと話したときのことなんだけどね」

続く彼女の言葉に、イアルは何となく赤ん坊に目を落とした。
眠っている赤ん坊はどことなく雛鳥に似ている。
目を覚ました途端に腹が減ったと泣き喚くあたり、まさにそっくりじゃないか。
そんなとりとめのない思いが浮かんで消えたのは、湧き上がる思いに蓋をしたかったからかもしれない。

「……悪いことをしたって、言ってたわ」

予想さえしてなかった言葉にイアルは弾かれたように顔をあげた。

「何のことだ?」
「あなたに断りもなく材木を送るような押しつけがましいことをして、不快な思いをさせたんじゃないかって……」

虚をつかれてイアルが立ちつくす。

まさにその通りだった。
それどころか、母の死やジェシの誕生の忙しさに紛れてそのままになっているが、腹立ち紛れに材木の代金をつっ返す算段さえしていた。

エリンが戸惑いながら口を開く。

「あれね、八つ当たりだったってキィノさんが言ってたの」
「八つ当たり……」
「そう。お母さまからあなたの話を聞いて、どうにも気持ちの収まりがつかなくて、あなたが嫌な思いをするかもしれないとわかってて、――ううん、嫌な思いをすればいい、とも思ったって……」

キィノと交わした会話を思い出したのか、エリンが苦しげに眉を寄せたが、イアルはぼんやりと黙したままだった。

あの高価な材木は、ただの好意から贈られたものではなかった。
むしろ、意趣返しのようなものであったのだ。
そう思うと、イアルの胸にわだかまっていたもやもやとしたものが、すとんと落ちていった。

兄の消息を知らされたときの彼女の困惑は想像に難くない。
きっと自分の世話を人任せにして、商売に没頭していた母への恨みは、死んだと聞かされていた兄の存在を知ったときに、自然と兄にも向けられることになったのだろう。
それが、理不尽だと知りつつも。

これ見よがしな高価な贈り物をして、離れた地で新しい生活を始める兄を気遣うように見せながら、知らぬ間に受けていた恩恵を突き返そうとした妹の心持ちは、何となくわかるような気がした。
どう考えても彼の記憶の中で、別れたときの赤ん坊と龕灯祭りの夜に会った妹の姿は結びつかない。
だが、別々の人生を歩んできた他人としか思えなかった妹が、今は不思議なほど身近に感じられる。

常の兄妹ならば、いさかいも珍しくない。
自分たちはただ一度、言葉のひとつも交わすことなく、互いの意地を張り合った。
ただそれだけのことだ。

それに材木の代金を送り返すには既に機を逸している。
言い訳のようにイアルは胸の中でひとりごちると、エリンに向き直った。

「――ジェシが生まれたとヤントクに手紙を出さなきゃならないな」
「……ええ。ヤントクさんにもヤントクさんのおくさんにも随分お世話になったものね」

唐突な彼の言葉にエリンがやや戸惑いながら答える。

「世話になりついでに、材木の礼を伝えてもらおうかと思うんだ」

ヤントクならば、何かの折に触れ、うまい具合に妹が抱えている後ろめたさを晴らしてくれるだろう。
エリンが小さくうなずく。
彼女の顔に浮かぶ安堵に、イアルはいくばくかの照れくささを感じ、目を伏せた。

腕の中のジェシの固く閉ざされた瞼に青い静脈が透けている。

あのとき、キィノの腹にいた子は男か女かも聞いてない。
決して会うことはない。
それでも、ジェシにとっては血を分けたいとこが存在している、と思うと腹の底がじんわりと温かくなった。
 
――ただ健やかに育てばいい。
ジェシも、遠い空の下の名も知らぬ子も。

彼の腕の中で、ジェシがむずかり声をあげる。
精一杯開けた小さな口からは懐かしい甘い乳の匂いが漂ってきた。


<終>

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