07/17の日記

12:12
社長マルコ4
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チャイムを押す手が戸惑う。
初めての帰宅だ。
この扉の先には自分の妻がいる。
会うのは三回目だ。

「あの、おかえりなさいませ!」
「…ただいま」
「あの、夕食作ったんですけど、あっそれともお風呂の方が良いですか?」
「食うよい」

ご機嫌を窺うように覗き込む彼女が、台所へ消えるのを見送ってから自分の部屋に向かった。
綺麗に整頓されている。
毎日掃除してくれているのだろう、埃も見当たらない部屋でふうと小さくため息をついた。

コツコツと小さなノックが響く。
「用意、できました」と彼女の小さな声が聞こえて、オレはダイニングへと向かった。

「和食って、好きですか?」
「ああ、どっちかっていうと和食が好きだよい」
「良かったです、今日は和食なので」

そう言って出されたのはごく普通の煮物、焼き魚に和え物、すまし汁等だった。
お嬢なのに料理は出来るのかなんて素朴なことを思い、一口食べる。
そこで気が付いてしまった。

美味しいのだ。
ただ単に、美味しいというのではない。
化学調味料の味が一切しない。
なのに、繊細でいて舌に良く馴染む。
これは独学ではできるものではないだろう。
そこまで考えて、今まで何故気が付かなかったんだろうと落ち込んだ。

今でこそ倒産寸前の企業だが、少し前まではそれこそ誰もが知っている大手の企業だったのだ。
代々続いてきた企業の一人娘、教育もその辺の成金とは違ってしっかりされてきたのだろう。
そんな大事に育てられてきた娘を、こんな親父が貰って良かったのだろうか。
幾ら大企業の社長といえ一回りも二回りも年上の、しかも成り上がりの親父に嫁がせるために大事に育ててきたわけじゃなかろうに。

なぜ今まで気づかなかったのか、それは置いておいても後悔してしまった。
自分の欲望に任せて、一人の女を不幸にしてしまったのではないだろうか。

「わりぃ、よい」

許されるはずもないのに、彼女にどうしても嫌われたくなくて零れたのは謝罪の言葉だった。

「え、あの、お口に合いませんでしたか?」
「そうじゃねぇよい。こんな親父と結婚なんてさせちまって、悪かったよい」

黙り込んだ彼女の顔を見ることができない。
後ろめたさは沈黙の長さに比例して大きくなった。

例えこのまま離婚をしたとしても、彼女の籍には傷が残るのだ。
そう簡単に許されることではない。

さらに続く沈黙に、もうダメだと肩を落とした。
最初はどうしても欲しかった。
そして力づくで手に入れた。
でも気付いてしまったんだ、力づくでは心は絶対に手に入らないということに。

「…それ、両親にも言われました」

やはりそうだろう。
心臓に刺さるような言葉に、オレは顔を上げることができない。
多分この先の言葉は彼女自身の言葉になるのだろう。
それが一番怖いのだ。
両親の言葉なんて、今の自分にはどうでも良い事だった。


「失礼ですよね、融資してくれる相手に」
「…は?」
「私、あの企業に勤めている数千人の社員の為に結婚しました」

分かってはいた、金目当てだって。
なのにこんなにショックを受けるのなんでなのだろうか。
どこかで期待していたとでもいうのだろうか。

彼女の目は真っ直ぐに自分を見ている。


「でも、幸せになるのを諦めたわけではありません」

彼女ははっきりと言った。


「マルコさん、マルコさんが私のどこを気に入ったのかは解りませんが、マルコさんさえよければ、一緒に幸せになりませんか?」


涙が零れそうになったのは生まれて初めてだ。


「お金目当てで結婚しておいて、烏滸がましいですが」

そう言った彼女に、オレは首を振るのが精いっぱいだった。




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