WEB拍手ログ

□web拍手ログ8『カナリア』
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誰からもらったか覚えてはいないが、いつからか空を臨む大きな窓辺に鳥籠が吊るされていた。
中には美しいカナリアがいて、澄んだ空に美しい歌声を響かせながら、時折丸く赤い瞳でこちらをじっと見つめている。





バサァ

音をたててカナリアが籠から飛び立つ。青い空に広げられた黄色い翼が太陽の光をうけて幼い子どもの顔に影を落とした。飛び散った黄色い羽根がゆっくりと部屋に落ちる中、七郎は大空を飛び回る小さな点をじっと眺めている。
羽ばたきの音と空になった籠から何が起こったかようやく気がついて、紫島は慌てて駆け寄った。

「何をなさっているんですか、坊ちゃん!逃がしちゃ駄目ですよ!」

「籠の中にいたら可哀想だもの。」

空を見上げていた七郎は振り返って紫島を見る。その表情は幼いながらも真剣で、彼が決して悪戯心から逃がしたわけではないとわかった。教育係の叱責にも一歩も引かず、真っ直ぐにこちらを見つめている。

「これであのカナリアは自由でしょう?」

紫島は眼鏡を押さえて小さくため息をついた。背を屈めて七郎に目線を合わせると、ゆっくりと言い含める。

「いいですか、籠の中で育てられた鳥は外では生きていけないのです。」

「……どうして?」

「一人で生きていく術を知らないからですよ。」

自由に飛び回る翼を持ちながらもあのカナリアは空では生きていけない。その厳しい現実が幼い子どもに理解できるのかどうかわからなかったが、紫島はそう口にする。

「鳥なのに?」

「そうです。あのカナリアは籠の中しか知りません。」

「でも籠の入り口を開けたら自分から出て行ったんだ。ずっと外に出たかったんだよ。」

七郎はそういって青い空を指差した。そこに広がる世界は自由で美しい。誰もが憧れを抱かざるを得ないような。

「だから出してあげないと。ずっと籠の中に閉じ込めてちゃいけないんだ。」

幼い子どもの顔は、年齢に似つかわしくない悲壮な色に染まっている。その小さな両手に収まっている鳥籠の中にはもう何もいない。開いた扉が風に吹かれて、キイキイと虚しい音を立てている。紫島はもう一度ため息をついた。

「そうやって坊ちゃんが扉を開けてしまっては、カナリアは捨てられたと勘違いしてしまうでしょう。」

そこまで言った後、紫島はようやく自らの失言に気がついた。目の前の幼い主は大きく瞳を見開いているだけだったが、やがて涙がみるみるうちに溢れていく。

「違うよ!」

「捨てたわけじゃない、捨てたわけじゃない、違うよ、違うよ……。」

俯いた七郎は空の籠を強く抱きしめる。その頭を紫島は優しく撫でた。

「ごめんなさい、坊ちゃん。わかっていますよ、坊ちゃんはあのカナリアに幸せになってもらいたかったのですよね…。」

カナリアが一体何を思いながら青空へ飛び立っていったのか。それはわからない。しかし、どういう思いであれ、もう帰って来ることはないのは確かだった。
―――人の手から放れた鳥の運命は、あの空に委ねられたのだ。

「もしかしたら立派に強く生きていくかもしれませんよ。なにしろ空は広いのですから。」

紫島の口にした言葉は、子どもを慰めるためだけの薄っぺらな楽観でしかない。それは幼いながらも聡い七郎にもわかっただろう。しかし彼はなにも言わなかった。紫島の言葉に縋り付くように何度も、何度も、頷いていた。

「幸せだよね?」

「今、あのカナリアは幸せだよね?」

紫島は幼い主を肯定するため、明るい微笑みをつくり頷いた。

「そうですね、きっと。幸せだと思いますよ……。」

雲が流れる澄んだ青空を、二人は窓の内側から見上げる。もう黄色い鳥の影はどこにもない。山に住む野鳥の声が、木々の間から響いていた。




(おわり)
22.12.26

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