テキスト6

□ログ28
1ページ/1ページ



兄さんの着る物がほとんどない。
それにもうちょっと早く気がつけば良かったんだけど、まあこういうことは大抵切羽詰まってから分かるものだ。


別にわざとじゃないんだよ?と弁明したけど、六郎兄さんは怒っていた。兄さんの着物には見事にコーヒーで濡れている。溢したのは俺だった。いや、本当にわざとじゃないんだ。ただ、このまま濡れたら面白いかもしれないとは思った、確かに。その一瞬の思いに風は忠実で、コーヒーから兄さんの着物を救いはしなかったのだけれど。


美しく染め抜かれた布地に茶色い染み。兄さんの呆然とした顔が脳裏に残っている。


兄さんは荷物もなく、ほぼ寝巻き姿で本家に帰ってきた。もともとほとんど私物を持っていなかったようだけど、それらはすべて別宅に置いたまま。兄さんが帰ってきたとき、一応急いで服を用意させたけど、数はしれている。その数少ない着替えを洗いに出していた時に起こった出来事だった。我ながら良いタイミング……いや、だからわざとじゃないってば。


六郎兄さんは着替えがないと知って、当然のごとく怒り狂っていた。でも、ない物はない。ない袖は振れない。だいたい服が少ないのに言い出さなかったのは、兄さんが悪い。喚く六郎兄さんに、懇切丁寧にそう説明した。どうにもならないと理解してようやく大人しくなった兄さんに、俺は自分が昔着ていた服を使うよう提案した。この家に、サイズの合いそうなものがそれしかないからだ。兄さんは再び喚き出した。裸で過ごした方がマシだと言い張ったので、それはそれで構わないよ、俺は見ていて楽しいから、と言うとあっさりと観念した。ちょっと顔色が青ざめていたような気がするけど、多分気のせいだろう。


一旦話が決まると、兄さんは大人しかった。あれは嫌だ、これは嫌だと反抗するだろうと思っていたのに、服の選別に関しては全く関心がないようで、俺の言うまま服を着ていた。このままスカートを差し出したとしても、大人しく着るんじゃないかと思ってしまう程度に。しかし残念ながら、さすがの俺もスカートは持っていなかった。


多分服に対するこだわりがないんだろう。与えられるものを諾々と受け入れるのが、六郎兄さんの処世術だったのかもしれない。


というわけで俺のお下がりの、ジーンズとTシャツとパーカーというラフな姿だった。これはかなり貴重な光景だと思う。後ろ姿を見れば、完璧にどこかの子どもだ。あまりにも笑えたので、紫島に隠し撮りするように言っておこうと思う。
これでアクセサリーをじゃらじゃらつけさせて、髪をワックスで整えたら心底面白いだろうな。それに帽子とか、靴とか、鞄とか、アレンジする余地はたくさんある。手持ちのアイテムを思い浮かべて、もっと派手な色のTシャツを着せればよかったと後悔した。結構いいやつがあったのに。
惜しいなと思いながら、兄さんに感想を尋ねてみる。


「どう、六郎兄さん、その服気に入った?」
「着物がいい」


六郎兄さんは疲れきっている様子で、返答も言葉少なだった。


「でも良く似合ってるよ。あーでも、やっぱもっと派手な色の方がいいかな。……ねえ兄さん、そのTシャツ着替えない?」
「なんでいちいち着替えないといけないんだ。俺の服が乾くまでの間に合わせなんだからこれでいい」


やっぱり無理だったか。簡単に着てはくれても、脱いではくれないというわけだ。


「じゃあ、せめてこの帽子被ってみてよ」
「はあ!?なんで室内でそんなもの被るんだ。必要ないだろ。」
「必要なんだよ!」


俺はそう力説して無理矢理帽子を被せた。あまりにも一生懸命だったせいで、兄さんは少々引き気味だったけど、おかげで脱いだりはせずにいてくれた。
うん、可愛い可愛い。ちょっとイケてる中学生みたいだ。街に出たら女の子の目を惹けるんじゃないだろうか。我ながらセンスが良い。


それにしても、まさか兄さん相手にこういう楽しさを味わえるとは思えなかった。
一緒に買い物に行けたらいいのに、そう思う。そしたら上から下まで新しい服を一式、俺が選ぶのに。俺が自分の裁量で使える金額は厳しく制限されているけど、兄さんの服のためとなったら話は別だろうから、さぞかし楽しい買い物になると思われた。大きなショッピングモールに行って、ちょっと良いブランドの店に行って、疲れたらどこかでお茶なりなんなりして帰る。この間エリやサヤカと行った、女の子が好きそうな可愛い喫茶店でもいいし、男向けのしっかり食べられる大衆食堂でもいい。想像すると楽しかった。


まあ、無理なんだけどね。
俺たちは生憎そういう兄弟じゃない。ここはブランドショップのウィンドウの前じゃなく、扇家の狭くて埃っぽい衣裳部屋。服もすべて俺のお古。……それでも想像は自由だし、似たような楽しみはつくれると思う。


「ねえ、兄さん」
「なんだ」
「また、俺に服を選ばせてくれる?」
「嫌に決まってるだろ。」


即答か。まあ仕方がないよね。
ちょっと気分が落ち込んで、衣装部屋の冷たい床を眺めた。今日のことは俺がコーヒーを着物に掛けてしまったからだしね。二度目や三度目があってたまるかと言いたくもなるだろう。そう俯いて考えていると、傍で小さなため息が聞こえた。そして、ボスっと頭の上に何かが置かれる。
手で触ってみた。俺がさっき兄さんに被せた帽子だ。深く被せられたせいで兄さんの顔は見えなかったが、声は小さいながらもはっきりと聞こえた。


「また、着る物がなくなった時にな。」


……帽子があって心底良かったと思う。
きっと今、俺はとても締まりのない顔をしている。赤くさえなっているかもしれない。
そういう事を言うから我侭な弟が付け上がるんだよ。まったく。


六郎兄さんは大げさにため息をついて、首の筋を左右に伸ばし始めた。肩が凝るようなことなど何もしていないが、疲れたという兄さんなりの表現なのだろう。


「服はこれでもういいだろ?とっととこの部屋から出るぞ。喉が渇いたんだよ。」
「あ、じゃあお茶でも飲もうよ!俺が淹れるからさ。」


兄さんは俺の勢いにちょっと驚いたようだった。


「お、お前が……?」
「たまにはそういうのもいいでしょう?滅多に飲めないよー。」


俺たちは買い物に一緒にいくような兄弟ではないけれど。
―――これはこれで楽しくてしょうがないんだ。
湧きあがる感情のまま、兄さんの背中を押して狭い衣裳部屋を出る。また今度、使用人に言いつけて、兄さんの着物を浴槽にでも沈めてしまおうかと思いながら。




(おわり)
22.12.13

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ