テキスト6

□ログ25
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「ねえ」


そう声をかけると、自分に背を向けて座っていた六郎の肩がピクリと震えた。
その様子を七郎は寝転んだ畳の上から眺めていた。学校から帰って制服も着替えずこの部屋でゴロゴロしているため、上着はきっと皴がついているだろうが、今はそんなことより目の前の兄の気を引く方が重要な事だった。


「ねえ」


もう一度そう繰り返し、羽織の裾を引っ張ると、六郎が嫌々ながらこちらを振り返った。胡坐をかいた膝の上には、この薄暗い中にもかかわらず本が置かれている。また読書?好きだね、と言おうとして、それ以外彼には大してできることがないのだと思い当たった。なにしろ「寝ている自分の傍から決して離れないように」と強く言い含めたのは七郎だ。六郎はそれを忠実に守っている。―――恐怖から。


七郎は寝転んだままズリズリと兄の横に移動し、膝の上の本をどかし、代わりにに自分の頭を置いた。これで兄の顔が良く見える。
一方六郎はものすごく嫌そうな顔付きで自分を見下ろしていたが、止めようとはしない。むしろ七郎の居心地が良い様に足の位置を動かしてさえくれる。


「ねえ、兄さん」


兄の足の上からその顔を見上げて、七郎は囁いた。


「キスしてよ」


その要求に対する六郎の目は、こちらの頭がイカれているのではないかとあからさまに危惧するものだったが、それでも「狂ってる」などと七郎を罵倒することもなく、青ざめた顔をすっと逸らした。どうやら聞かなかったことにするらしい。


「ねえってば」


そう笑いながら、七郎は体を捻り、少し身を起こして六郎の後頭部に手を伸ばした。鬱陶し気にその手を振り払おうとする六郎を無視して、柔らかい髪の中に指を入れる。しばらくその感触を楽しんだ後、七郎はその髪を下へグッと引っ張った。


「……いてえ、止めろ!手を放っっ!!!」


悲鳴をあげる兄に、七郎は拗ねた口調で訴える。


「兄さんが俺のお願いを聞いてくれないからさ。」


そう言って髪から手を放す。ただ、後頭部に手は添えたままだ。「お願い」を聞いてもらえないならもう一度引っ張るつもりでいたのだが、そんなことは六郎にもわかっているらしい。眉間に皴を寄せて、しばらく視線を彷徨わせていたが、やがてゆっくりと身をかがめた。それに合わせて七郎は目を閉じる。唇にそっと触れていく柔らかい感触。やがてそれが離れたので目を開けると、元の位置に頭を戻した六郎が青ざめた顔をしてこちらを見下ろしている。

「これで良いんだろう。」


そっけなく言い放って六郎は本を再び手に取った。もう七郎を相手にするつもりはないということがとてもわかりやすい態度だ。


でもさ、あれだけで満足できるわけないだろ?


あんなものは子どものキスだ―――とは言っても、反抗的な六郎にしてみれば上出来の部類だった。なにしろ彼はこのような事態にあまり免疫がない。本人も隠しているつもりなのだろうが、本のページを捲る指がカタカタと震えていることに七郎は気がついていた。
彼も大変だ―――女を相手にする前に、実の弟なんて厄介なものを相手にしなくてはならないのだから。


これ以上彼に行動を求めるのは酷だろうと、七郎は兄の足から体を起こした。そうすると目線は入れ替わり自分の方が高くなる。先ほどと同じく相手の後頭部に手を回すと、六郎は目を見開いて七郎の顔を見上げた。今度は自分が少々身をかがめて、六郎の耳元でねっとりと囁く。


「ねえ、兄さん。」


六郎が息を呑んで身を固くするのがわかった。


「もっと、欲しい」


そういうと、片手を後頭部に、片手を腰に添えて自分の方へと強く引き寄せた。
バサリ、と本が落ちる音とともに、六郎の驚きに満ちた顔が自分のすぐ傍まで来ていた。
更なる至近距離まで顔を近づけてぺロリと舌を出す。その舌の濡れた赤を見せつけた後、ゆっくりと六郎の唇を舐めまわした。六郎は目を固く瞑り顔を歪めながらも、必死に這いずる舌の感覚に耐えている。その様子は艶かしいものというよりは、犬に舐められているのを我慢しているといった風で、七郎は少々気に入らなかった。もう少し色気のある反応を期待していたのだ。
もっと劇的な反応が欲しくて、舌で唇を抉じ開けると、無理矢理口内へと舌をねじ込んだ。突然の侵入者に六郎が喉から小さく悲鳴をあげるが、その声は七郎の口の中へ吸い込まれて消えていく。更に奥に侵入して自分の舌を相手の舌にザラリと絡めた瞬間、ビクッと電気が走ったように六郎の体が震えた。


「……っつ!」


舌に噛みつかれて思わず七郎は口を離した。血の味がする。一方六郎は自分が咄嗟にしてしまったことに驚いたのか、体を引いて凍り付いている。その口の端から、血の混じった唾液がツウと零れ落ちていることが、強烈な痛みの中にあってさえとても淫靡に感じた。


七郎はその光景に少し見とれた。その後、口の回りについた唾液を親指で拭いながら、硬直したままの兄に微笑みかける。


「兄さんは俺が嫌いだね。」


「知っているよ。こういう事が嫌なんだって。そりゃそうだよね、男同士なんだから。」


「嫌なら別にいいんだ。他の誰かに相手をさせれば良いんだからさ。金で雇ってもいいし、その辺を歩いている奴に適当に声をかけても良い。」


「でも、覚えていてよ。どんな人間だって、結局貴方の代わりにしかすぎないって。」


この脅しに六郎は顔を引きつらせた。彼は優しい。弟に対して無関心を貫こうとしながら、結局七郎が自らのためにならない事をすることが看過出来ない。放っておけば、また弟が性質の悪い「遊び」を始めるかもしれない恐怖から、六郎は大人しくここにいる。


「なんでお前はっ……もう、そういう事は止めろ。ろくなことにならないぞ。」
「じゃあさ、兄さんが俺にキスをしてくれる?俺がさっきしたみたいに。」


六郎は唇を噛んで俯いていたが、意を決したように顔を上げると、腕を弟の頭に伸ばした。そして、お菓子をねだる子どものように小さく開けられた口に、恐る恐る舌を入れた。舌先と舌先が微かに触れ合ったと思ったら、引っ込む。もう一度触れては引っ込む。それに焦れた七郎は催促の意を伝えるために、六郎の首を引っかいた。
瞬間、それに驚いた六郎の舌が、飴玉を転がすように七郎の舌をぺろりと舐めた。


「……んっ」


思わず甘ったるい声が漏れる。
六郎の舌はそれをきっかけにようやく動き始めた。このようなキスに慣れている身としては、正直下手くそとしか言い様がなかったが、それでも七郎は自分の顔がみるみるうちに紅潮していくことがわかった。予測のつかない、気まぐれな舌の動きの一つ一つに翻弄されそうになる。漏れる自分の声は今までに聞いた事がないほど甘く高い―――相手が六郎だと思うだけで、なにかの箍が外れているようだった。
とうとう我慢が利かなくなって、自分も舌を動かした。また噛み付かれてはたまらないので、始めは驚かせないように、そっと。そしてだんだんと大きく動かしはじめる。舌が絡む度に体をビクリと震えさせて逃げ出そうとする六郎の体を押さえつけて、七郎は深く深く舌を進めた。


彼の口内は甘い。


それは不思議な程だった。舌で触れる全ての部分がとろけるように甘いのだ。
舌も、頬の粘膜も、歯も、唾液も、全てが甘い。
その全ての部分を、砂糖菓子を生まれて初めて食べる飢えた子どものように貪った。


なんでこんなに甘いんだろう。


舌でありとあらゆる部分を舐めつくし、唾液を啜り、または逆に血の混じった自らの唾液を注ぎ込む。六郎が耐え切れなくなってゴクリとそれを飲み込む音がした時は、言い様のない快感が背筋を走った。


息が続かなくなって一旦舌を離す。粘ついた唾液が糸を引いているのを見て、酔っ払ったように頭がクラクラした。浮いた感覚のまま、もう一度唇を合わせる。舌が絡み合い滑るぬちゃりとした水音と、唇の間から漏れる荒い吐息と、快楽に溺れた甘い声。どうしようもなく頭の芯が痺れて、全ての音が飽和状態になり、それは目の裏で光のように弾けた。その途端、七郎は急に体に力が入らなくなり、ガクンと崩れて目の前の六郎の体にしがみついた。


「お、おい、どうしたんだよ。」


突然の事に困惑する兄の声に、自分でも笑い出したくなるようなことを七郎は告げた。


「はは、腰が抜けたみたい……」
「はぁ?」


意味がわからないといった風の六郎の肩に顔を埋める。腕にすら力が上手く入らず、ちょっとずつズルズルと下へ下がっていく自分の体を、六郎が重たそうに抱きとめた。その自分より細い腕の中で、急に先ほどの感覚を思い出す。すると顔から火が出そうな程恥ずかしかった。
こういうのには相当慣れているはずなんだけどなあ、と七郎は思う。
それなのに今は、顔を上げて相手の顔を見ることすらできそうになかった。


「六郎兄さん。」
「なんだ。」


六郎の体に顔を埋めたまま、七郎はポツリと告げた。


「好きだよ。」


長い沈黙があった。返答が返ってくることを諦めかけた頃、同じぐらい小さな声で、ようやく六郎が呟いた。


「……そうか。」


弟の言い分を否定することの返事に、七郎は小さく微笑んだ。それだけでも十分だ―――少なくとも今は。
ごめんなさい、兄さん。でも、それでも。
顔を兄の体に強く押し付けて、一向に大人しくなる気配の見せない自分の心臓の音を、七郎はただ目を閉じて聴いていた。








(おわり)
22.10.4

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